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 鬱乃森が、スクラップブックをテーブルの上に開く。


 スクラップブックには、いくつもの新聞記事が貼られていた。


「この事件を知っているかしら?」


 鬱乃森が白く細い指で記事を示す。


「なになに⋯⋯『中学一年生が飛び降り自殺 遺書「LIMEで無視された」』?」


 記事の意味はわかったが、鬱乃森がこれを持ち出してきた意味がわからない。


 柚木も身を乗り出して記事を読む。


「ええっと、『そんなささいなことで命を断つとは、今の子どもは反骨心が足りない。自分が中学生だった頃は校内暴力の吹き荒れた時期だった。校内暴力は問題だが、教師に逆らう気概がないのもいかがなものか』だって。

 書いてる人は⋯⋯文芸評論家? うーん⋯⋯聞いたことない名前だなぁ」


「そもそも、教師に逆らってどうなるっていうんだ? 内申が不利になるだけだろ」


「今は一般入試より推薦入試のほうが多いもんね。テストの点の一点二点の差より人間性を見るべきだって話で」


「そんなこと言われても人間性ってなんだよって思うよな。結局一度や二度の面接じゃわからないから、下の学校の内申がモノを言うらしいし」


「でもべつに、先生たちだって悪気があってやってるわけじゃないんだからさ。意味もなく逆らうほうがおかしいよね。そもそも、先生に問題があったら文科省の学校評価サイトに言えばいいし」


「それもあるから、先生たちもムチャは言ってこないしな」


 柚木と言い合いながら、記事の続きを読む。


「『中学生のような子どもが自らの命を断つのは、ITが普及したことで現実と仮想の区別がつかなくなったからだ。いのちの大切さを学校で教える必要がある』⋯⋯ねえ」


「ITってなに?」


 柚木が鬱乃森に聞く。


「情報技術のことよ。まだパソコンやスマホが目新しかった、90年代から2000年代にかけて流行った言葉ね。今では当たり前すぎて、わざわざ『IT』なんて言わなくなったけど」


「死語ってやつか」


 鬱乃森の説明に納得しつつ、俺は言う。


「新聞って『いのち』とか好きだよな。命が大切じゃないやつなんているかよ。そんなお題目で自殺を止められるもんかね?」


 俺の言葉に、鬱乃森がうなずく。


「珍しく意見が合ったわね。この文芸評論家には、追い詰められて自殺しようとしている中学生に、ぜひ『いのちの大切さ』とやらを説いてみてもらいたいものだわ。書斎に閉じこもって老人が喜びそうな記事を書いてお金をもらってる『識者』とやらに、危急の場で何ができるとも思えないけれど」


「……いや、意見は同じかもしれないが、そこまで辛辣なことは言ってないからな」


 本当に恐れを知らないやつだ。思わず誰かが聞いてないかと周りを見回してしまったよ。


「でも、私が言ってるのはその次の記事よ」


「次? 事件についてのLIMEのエンジニアのコメント⋯⋯って、父さんじゃないか!」


「えっ、ユージンのお父さん?」


「ああ。『弊社は今回の事件について大変痛ましく思っている。弊社では自殺の兆候を察知して関係機関への誘導を行うシステムを導入しているが、今回の事件では残念ながら有効に機能していなかった。昨年から導入した、いじめと思われる書き込みを人工知能がフィルタリングする機能は、まだまだ抜けが多く、改善を図っていきたい。LIMEは人々のオンラインコミュニケーションを担う企業として、今後も再発防止に努めていく』⋯⋯か」


「どう思った?」


 鬱乃森が俺に感想を聞く。


「うーん。ちょっと気負いすぎじゃないか? LIMEのせいで自殺したわけじゃないし」


「そうね。根本の原因はいじめであって、LIMEはその手段として利用されたにすぎないわ。

 でも、この事件でLIMEには多数のクレームが寄せられ、株価も一時的に急落したわ」


「なんでだよ」


「人は、よくわからないことが起きた時に、原因を求めずにはいられないのよ。その原因も、わかりやすければわかりやすいほどいい。多数の小さな原因が複雑に相互作用した結果として何かが起きた、なんてまわりくどい説明は歓迎されないわ。

 この件では、記事の中に『LIME』という単語が含まれていたから、単純な原因を求めたい人たちがそれに飛びついただけ」


「株価は? 投資家って、そんな単純な理由で株を売ったりするもんなのか?」


「投資家はきちんとわかっているでしょうね。彼らは、一般人が目に見える原因に飛びつくだろうというところまで予想して動いてるの。株価が落ちる前に売っておいて、底を打ってから買い戻せば、実質何もしてないのにお金が増えるわ」


「悪どいな」


「頭のいい人が、労力をかけずに金を手に入れることだけを考えると、そういう行動に落ち着くということね」


 鬱乃森が肩をすくめる。


(こいつがその気になったら、同じことができるのかもな)


 倫理的に潔癖なこいつがそんなことをするとも思えないけど。


 鬱乃森が言った。


「結構大きな事件だと思うのだけど、本当に知らなかったの? あなたのお父さんがコメントしてるのに」


「ああ。LIMEニュースにはなかったからな」


 俺はテレビも新聞もほとんど見ない。

 見るのはLIMEのニュースだけ。

 べつに、父親がLIMEだからとかじゃなく、今の若い世代はたいていそうだ。


「必要な情報はLIMEニュースで過不足なく手に入る。自分と関係ないニュースを見ても、何ができるわけじゃないし」


 考えてみれば、偏った情報を得ていることになるが⋯⋯じゃあ、どうやったら偏りのない情報が手に入る?

 そもそも、何をもって、ある情報が「偏りがない」と言えるのか。


 俺はなんとなく、LIMEニュースを見ていることで世間に対する義理が済んでるっていうか、必要なことはちゃんと知ってるつもりでいた。


(かといって、新聞がいいとも言い切れないし)


 この事件の論評のような的を外れた老害的な意見を読んで、なるほどその通り、俺が思ってた通りじゃないか⋯⋯なんて言ってる年寄りは、じゃあ、偏っていないのか。


「たまには新聞も見るべきってことか? でも、興味ない記事ばっかだしなぁ」


「わかるー。暗い記事ばっかで気が滅入るしね」


 と柚木。


「そうして暗いニュースは嫌われ、わたしたちは自分好みの明るいニュースだけを見て、なべて世は事も無しと自分を安心させてるわけね」


 なんだ、いやにからむな。


「しょうがねえだろ? LIMEの方でフィルターをかけちまうんだから。それに、もしフィルターがなかったら情報が多すぎて読みきれないよ」


「だねー。訪日したアメリカの大統領が晩餐会で何食べたとか、それをあたしに知らせてどうしたいのって感じだし。株なんてやらないから日経平均が上がった下がったとか言われても知らないし。経済ニュースも、その業界の人なら興味あるんだろうけど。

 そのくせ、あたしがほしいような情報はないんだよね」


「新聞って、誰向けに書いてるんだろうな。『大衆』向けに書いてんのかな。『大衆』って誰だよって感じだけど。

 でも、LIMEニュースって、そんなに偏りがあるもんなのか?」


 俺の疑問に、鬱乃森が答える。


「LIMEは、チャットでの反応をビッグデータとして解析し、コミュニケーションを良くする効果のあるニュースとそうでないニュースを選り分けるように設計されてるわ。もちろん、コミュニケーションにマイナスなニュースはフィード上には表示されない。この事件は典型で、多くのLIMEユーザーが心地よさを感じられないニュースは、フィード上からすぐに排除されてしまう」


 そう解説する鬱乃森に、ふと疑問が浮かんだ。


「⋯⋯前から思ってたけど、おまえ、詳しいよな。スマホ持ってないくせに」


 こいつは、スマホに無関心なわけじゃない。

 むしろ、関心は人よりずっとある。

 かといってもちろん、好きなわけじゃない。


(でも、嫌いなことの情報をそんなに熱心に集められるもんか?)


 俺にも嫌いな芸能人の何人かはいるが、そいつらをけちょんけちょんに批判するためだけに情報を集めようとは思わない。

 むしろ、自分の視界に情報が入ってこないようシャットアウトするだろう。

 俺のそうした意図をLIMEは的確に読み取って、しばらくすればフィードに俺の嫌いな芸能人の情報を表示しないよう学習する。


 そのことを、おそろしいとは思わない。

 日常生活でだって、自分の嫌いなことからは目を背けるのが普通じゃないか。


 え? 真実から目をそらしてはいけないだって?


 でも、自分と関わりがない「真実」とやらに全部目を向けていたら、時間がいくらあっても足りなくなる。

 自分にとって大事なことから優先順位をつけて情報収拾するのは当然のことだ。

 LIMEはその手助けをしてくれてるだけだ。


(自分にとって大事なこと、か。鬱乃森にとって大事なことってなんなんだろうな? 鬱乃森は何を大事にしたくて、自分では触らないLIMEの情報を集めたりするんだ?)


 俺が考えていると、鬱乃森がスクラップブックのページをめくる。


「他にも、最近新聞で話題になった記事をここに集めてあるわ。この事件は知ってるかしら? 隣の県で、務め先でリストラにあった派遣社員が、白昼繁華街で包丁を振り回し、十数人が死傷した」


「いや……知らないな」


「じゃあこっちは? 三十代のひきこもりの男が、高級住宅街の中にある富裕層向けの幼稚園を襲撃し、園児数人と、それをかばった保育士の女性が殺された」


「あ、テレビで見たかも」


 柚木が反応するが、俺はこの事件も知らなかった。


「都心の地下鉄で、塩素系の洗剤と酸性の洗剤を混ぜ、塩素ガスを発生させた二十代の女性が、乗客によって取り押さえられた。塩素ガスで気分が悪くなって病院に運び込まれた人が二十人以上も出た。もちろん、混雑する時間帯を狙って犯行に及んだのよ」


「ひでえな」


 と思ったが、やはり知らない事件だ。


「東京駅八重洲口で手製の火炎瓶を通りがかったビジネスパーソン目がけて無差別に投げつけた事件も起きてるわ。さいわい、火炎瓶の威力は小さく、被害者は軽いやけどを負っただけで済んだけれど。犯人は犯行後に焼身自殺しようとしたものの、駅員によって消火され、意識不明の重体になって病院に搬送された。のちの供述では、『金持ちのサラリーマンを狙ってやった』と言っている」


「⋯⋯鬱乃森。けっきょく、何が言いたいんだよ?」


 鬱乃森の意図が見えず、俺は聞く。


「増えてるのよ。自分の身を顧みず、無差別に他人を殺傷しようとする事件が」


「それがどうしたっていうんだ。昔からある事件だろ。そりゃ、増えてるのかもしれないけど。犯人の性別も年齢もバラバラで、共通点なんてないじゃないか」


「それが、あるのよ」


「⋯⋯なんだって?」


「犯人は、そろってこう供述してるわ。『LIMEで無視されたのに腹が立ってやった』と」

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