17

 その日は雨が降っていた。

 朝は曇りだったのだが、二限くらいからざあざあと降りだして、とてもじゃないが屋上に出ることはできなかった。


 そんな日に鬱乃森がどこにいるか。


 正解は、図書室である。


 昼休み、さんざん探し回って見つからず、放課後教室から出たところでこっそり聞いたら、


「図書室にいたわ」


 と、そっけない答えが返ってきた。


 そのまま立ち去ろうとした鬱乃森だったが、途中で振り返り、俺に向かって言った。


「今からまた行くけど⋯⋯来る?」


 二つ返事でオーケーしたのは言うまでもない。


 俺は掃除当番があったので、あとから行くと答えて別れる。


 ちょっぱやで掃除を片付けて、俺は足早に図書室に向かいーー今に至るというわけだ。


「図書室なんて入学ガイダンス以来だな」


 学校によっては、図書室にパソコンやタブレットが置かれ、総合メディアステーションになってるらしいが、うちの高校の図書室は昔ながらの紙の本だけの図書室である。

 こことはべつに多目的メディア室はあるんだけどな。

 だからこそかえって、こっちの利用者はほとんどいない。

 定年間近の女性教師が、カウンターで黙々と本を読んでいるだけだ。


 俺は、書架には向かわず、図書室内の階段を上って、ロフトのようになっている閲覧スペースに入った。


 そこには、髪を片手で押さえながら、分厚い専門書に読みふける黒髪の美少女の姿があった。


「よう」

「本当に来たの」

「来ちゃ悪かったか?」

「いえ、好きにしてちょうだい。話がしたいなら適当に聞くし」

「適当にかよ」

「メインは読書なんだもの。しかたないでしょ」

「そう言われてひとりで話し続けるのもキツいんだが」


 俺をガン無視して本読んでる女の子に話しかけ続けるって、はたから見たらどうなんだって感じだ。


「じゃあ、本でも読んだら? ここの蔵書は高校にしてはなかなかよ」

「そうなのか?」

「近所にある市の図書館が完全電子化されたのは知っている?」

「いや⋯⋯」

「保証金を取って専用のタブレット端末を貸し出して、端末上で読んでもらうのね。本を所蔵するスペースがいらないから、これまでみたいな大きな建物はいらないわ。貸し出しがかぶったとしても、電子書籍なら同時に貸し出せる。図書館に専門の司書を置く必要もないから、市にとっては経費の大きな削減になるのよ。そこで不要になった本が、この学校に寄贈されたというわけ」

「へえ⋯⋯」


 たまにはいいか、と思って、俺は書架に向かう。

 最近読んでいる心理学関連の本を探す。


「おっ、これ読みたかったんだ」


 専門書は高いので、学生には手が届かない。

 鬱乃森なんかは、何千円もする専門書をふつうに買っているようだったが。


 俺は何冊かの本を手に、鬱乃森のいる閲覧スペースに戻る。

 あいかわらず他に誰もいない。


 俺は、鬱乃森の隣に座るか、向かいに座るか、一個空けて座るか、迷いに迷った。

 結局、机の対角線の席に座った。横じゃ馴れ馴れしすぎるし、真ん前では圧迫感がある。あまり離れた席に座るのは俺が嫌だ。


「⋯⋯その三冊を読むなら、いちばん下の本から読むといいわ」


 鬱乃森が、自分の本に目を落としたままでそう言った。

 すげえ周辺視野だな。


「ありがと。そうするよ」


 俺は勧められた本を机に開きーー






「そろそろ帰るわ」


 鬱乃森の声ではっとした。


「わっ、もうこんな時間か!」


 鬱乃森とも話さず本に没頭とは。なんのために図書室に来たというのか。


「意外ね」


 鬱乃森が言ってくる。


「何がだ?」

「スマホ人間だから注意が散漫なんじゃないかと思ったんだけど、わたしの声が聞こえないくらい集中してたから」

「⋯⋯それ、ひょっとして褒められてるのか? それと、スマホのヘビーユーザーは注意力が散漫になるっていう科学的な根拠はあるんだろうな?」

「なかなか言うようになったじゃない。今の言葉は取り消すわ」


 やった。鬱乃森に口で勝ったぞ。


 俺たちが玄関口まで下りていくと、


「あ、椿っち、ユージン!」

「奈緒。まだ残ってたの?」


 柚木が、ちょうど靴を取り出して帰ろうとしているところだった。


「いやー、傘忘れちゃってさぁ。雨止まないかなーって食堂で時間潰してたんだけど、ダメっぽいからダッシュして帰ろうかと」


 言われて、俺は雨に濡れた柚木を想像した。

 ブラウスが透けて⋯⋯


「そこの思春期男子が変なことを考えてるみたいだからやめておいた方がいいわ」

「人の心を読むな!」

「わかりやすい顔をしてるのが悪いのよ。人間の表情を研究したアメリカの心理学者がいるのだけれど、その人が面白いプログラムを作っているわ。たくさんの人の表情を撮した写真を次々モニター上に表示して、一瞬でどの表情かが見抜けるように訓練するのよ」

「やったの、それ?」

「私は人の表情を読むのが苦手だったのだけど、そのプログラムのおかげで自在に読み解けるようになったわ」


 胸を張る鬱乃森に、


「でも、人の表情なんて見ればわかると思うけどなぁ?」


 柚木があっけらかんと首をかしげる。


「⋯⋯まあ、そういう人もいるわ。いいのよ。どうせ私は空気が読めず、他人の感情の機微もわからない、情性が欠如した共感性の低い人間なのだから」


 目をそらし、珍しく自虐的なことを言う鬱乃森。


「でも、柚木の家ってちょっと遠いんじゃなかったっけ?」


 フォローのしようもないので、俺は話題を変えて柚木に聞く。


「そうなんだよねー。びしょびしょになっちゃう。お母さんは仕事だから迎えに来てもらうのも無理だし」


 柚木がため息をついた。


「それなら、わたしの傘に入れてあげるわ。うちは近いから、なんならうちで雨宿りしてもいいし」


 鬱乃森の家だと⁉︎


 俺は柚木に目配せをする。

 俺の気持ちを知っている柚木は、俺にウインクしてみせた。


「はいはーい! 椿っちの家に行きたいです!」

「雨宿りはどうなったのよ。まあいいわ」


 というわけで、俺と柚木は鬱乃森の家に招待してもらえることになった。

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