12
夜、俺はベッドに横になり、今日一日のことを思い出す。
鬱乃森との「待ちぼうけ」、柚木と合流してから行った動物園。
「楽しかったな」
身体は疲れていたが、かつてない充実感があって、嫌な感じはしなかった。
俺は、思わずベッドの脇を手探りした。
「あっ……そうだった」
反射的にスマホでチャットを送ろうとしてしまったが、今俺のスマホは修理中だ。
いや、俺のスマホだけあったところでしょうがない。
鬱乃森も柚木もスマホを持っていないのだから。
「そうか、スマホがないってことは、明日会うまで話せないってことなのか」
言葉にしてみると当たり前だが、話したくなったらすぐにLIMEを打つのが癖になってるな。
「鬱乃森は今頃何してるんだろ? 俺のことを考えたりするんだろうか? それとも柚木のことか? わかんねー」
LIMEで聞ければすぐにわかるのに。
いや、LIMEにだって、みんな正直に書いているとは限らない。
他人向けの、当たり障りのない「今○○してる」を答えてくるだけだろう。
「何だ、この焦がれる感じ。きっついな……スマホなかった時代はこんなだったのかよ」
既読スルーされた時に似ているが、それよりもずっときつい。
既読スルーならそのうち返事が来ることが多いが、この場合は明日まで待つしかないのだ。
「ひょっとして……これって……いや、まさか!」
たしかに鬱乃森は美人だ。
でも、とんでもない変人でもある。
存在感のない、クラスの幽霊。
俺の好みってことなら、断然柚木の方だ。
明るくてかわいくて頑張り屋で、一緒にいて元気になれる。
スマホさえ持っていたら、今頃クラスの中心になっていただろう。
スマホが壊れたおかげでそんな美少女とお近づきになれた。
そう考えればむしろラッキーだったのかもしれない。
「ま、あの二人が俺になびくなんてありえないけどな」
しかしもし、二人が注目されて、彼氏ができるようなことになったら……
柚木はああいう性格だから、バイト先ででも彼氏を見つけてしまうかもしれない。
鬱乃森はどうだろう。
いい家のお嬢様らしいから、その伝手でお見合いなんかが持ち込まれたり?
柚木と鬱乃森。
どっちも嫌な想像だが、なぜか、他の男に笑顔を向ける鬱乃森を想像してしまう。
やめろ!
そう言いたいのに、そう言うだけの資格が俺にはなくて。
近づく二人の距離。
恥じらう鬱乃森。
そして――
「うぐおおお……!」
俺はベッドの上で奇声を上げて転げ回る。
LIMEしたい!
今鬱乃森が一人でいることを確かめたい。
今鬱乃森に俺以外の男の影がないことを確かめたい。
ストーカーみたいな発想だ。
でも、そんな気持ちが抑えられない。
ドンドンドン!
隣室から激しい壁ドンの音が聞こえてきた。
「うっさい!」
姉の怒鳴り声が聞こえた。
ひさしぶりに、姉の声を聞いた気がする。
もう大学生の姉は、夕食の時間もずれることが多く、俺と話す機会がほとんどない。
用事があればLIMEで片付くしな。
前にLIMEをしたのは、母親の誕生日の時だったか。
「……姉ちゃんて、今何考えてるんだろうな」
来年は就活のはずだ。
どういう将来を描いているのか、あるいは描けないでいるのか。
そんな重い話はLIMEでは聞きにくい。
かといって、普段会話がないから話しかけるとっかかりがない。
隣の部屋にいるっていうのに、きょうだいだっていうのに、俺は姉の今がほとんどわからない。
かといって、勇気を奮って姉に話しかけてみようとは思わない。
そんなことをしても気味悪がられるだけだろう。
俺は風呂に入るために部屋を出る。
階段を降りると、そこでちょうど玄関のドアが開く音がした。
「ただいま」
父の声が聞こえた。
「おかえり」
なんとなく返事をすると、父さんはびっくりしたようにこっちを見た。
……なんだよ、あんたが最初に言ったんだろ。
「めずらしいな。おまえが返事をしてくれるなんて」
「人をひきこもりみたいに言うな」
「ははっ。それもそうだ。うちはみんな元気でやってるからありがたい」
父さんは靴を脱ぎ、リビングへと向かう。
父さんが、俺に言った。
「最近母さんと話してるか?」
「LIMEで……」
「LIMEじゃなくて直接だ」
「スマホが壊れてさ。今は行き帰りの挨拶くらいはするよ」
「スマホが直っても続けてもらいたいもんだな」
「それはどちらかというと母さんに言ってほしい」
「まあな……」
母さんは夕食の片付けを終え、部屋でドラマを見ているようだ。
(今日はもう店じまいって感じだな)
主婦の営業時間は終了しました、以降の連絡はLIMEで受け付けます。
そんな感じだ。
「母さんとうまく行ってる?」
思わずそんなことを聞いてしまった。
(ヤバ……踏み込みすぎた)
案の定、父さんは驚いた顔をした。
が、すぐににやりと笑って言う。
「安心しろ。おまえたちが独り立ちするまでは死んでも別れない」
「不安になることを言うなよ」
「母さんとのコミュニケーションは良好だよ。LIMEのおかげでな」
「ああ、パートナー用の関係支援機能があるんだっけ」
「そこは、LIMEの開発当初から異様に充実してるからな。LIMEはそのためにできたと言っても過言じゃない。開発者の執念を感じるよ」
「そうなの?」
「そうなんだ」
父さんが自信ありげにうなずいた。
なぜ、父さんがそんなことを知ってるのかって?
それは、父さんがLIMEのエンジニアだからだ。
「最近仕事はどう?」
レンジで夕飯をチンしている父さんに聞いてみる。
「なんだ、今日はいやに話すな」
「い、いや……」
「誰かの影響か。どうせ女の子だろう」
「…………」
なぜわかった。
父さんはあったかくなった夕飯をダイニングテーブルに置き、食べ始める。
「俺の職場は……ある意味、時代の先端を行ってるんだろうな」
「そりゃ、天下のLIMEだもんね」
LIMEができる前には、様々なSNSやチャットアプリが乱立していたらしい。
そこに燦然と現れたのがLIMEだ。
開発者は日本人だと言うが、登場とともに瞬く間に世界に広がり、アメリカの検索大手やソーシャルネットワーキングサービスの版図を塗り替えていった。
日本では名前のよく似たチャットアプリが普及していたが、LIMEはほぼ完全にそれに取って代わった格好だ。
「職場はしんとしてるよ。会話は全部LIME越し。その方が履歴も残るし、時間も節約できる。直接会話するとなると互いの時間を合わせなくちゃいけないが、LIMEならそういう手間もない。非同期型コミュニケーションって奴だ」
「なんだか教室と似てるな」
「今の学校はそんななのか……」
父さんが複雑そうな顔をする。
飯を食べ終えた父さんは、冷蔵庫からビール缶を取り出し、音を立てて開けた。
「俺がLIMEに入った時はこんなじゃなかった。俺はLIMEに新しいコミュニケーションの可能性を見たんだ。でも、LIMEが普及してみると、出来上がったのは会話のないディストピアだ」
「そ、それは言いすぎなんじゃ」
父さんはビールをぐいっと呷る。
「隣にいる部下が、LIMEで俺に指示を仰いでくるんだぞ? 一度、直接言えよって言ったら、オフィス中から咎めるような目を向けられた。頭がおかしくなりそうだ。それとも、俺の方がおかしいのか?」
「……そんなことはないと思うよ」
俺が言うと、父さんは軽く目を見開いて俺を見た。
「おや、意外だな。おまえはあっち側かと思ってたが」
「あっち?」
「LIMEの向こう側だよ。どこでもないどこか。実在しないはずなのに、みんながあると信じこんでるどこかだ」
「こっちこそ意外だよ。天下のLIME社のエンジニアがそんなことを言うなんて」
「だからこそさ。中にいれば、それが架空の世界だってことが嫌でもわかる。システム設計者がデザインしたとおりにみんながつながっていく。そういうつながりが全部悪いと言うつもりはないが……」
父さんはビールをテーブルに置いて俺を見た。
「知ってるか? チャットの頻度や内容を分析すると、男女がカップルになるかどうかを高い精度で予測できるんだ」
「……それ、プライバシーの侵害じゃ?」
「もちろん個人情報とは関連付けないが、ハラスメント対策でチャットはすべて人工知能が監視してるんだ。おまえ、まちがってもLIMEに犯罪になるようなことは書き込むなよ? 自動で通報されるからな。LIME社員の息子が逮捕されてみろ、俺の立場はどうなる?」
「んなことしねーよ。っていうか俺じゃなくて自分の立場の心配かよ!」
俺のつっこみに、父さんが苦笑する。
「とにかく、人間関係が形成される確率は計算できるんだ。計算できるということは設計できるということだ。LIMEは、おそろしいほどに計算され尽くしたメディアだよ。友達との縁が絶対に切れることがないように。それだけを考えて作られてる。LIMEは人をがんじがらめにする。これを作った奴は、よほど人間関係に過敏で、他人を信じられなかったんじゃないか?」
「……よくわかんないんだけど」
俺は中学の頃にはもうLIMEを使っていた世代だ。
LIMEがない人間関係なんて、想像することすら難しい。
父さんは、俺には構わずに話し続ける。
「だが、それこそが、LIMEが天下を取れた理由だよ。先行していたどのSNS、どのチャットアプリもここまでは徹底していなかった。昔だってSNS中毒とか、つながり依存とか、いいね!がもらえないと怒り出すとか、既読がついたのにスルーするとキレられるとか、いろんな問題はあったんだ。でも、完璧に計算され尽くしたLIMEは、それらの問題を乗り越えた。LIME社は、LIMEを『人間関係調整アプリ』と呼んでいる。人間関係をすべてLIMEの上に吸い上げて、把握可能な変数として扱うんだ。天才だな、こいつを作った奴は」
「こいつ」のところで、父さんはテーブルに置いた自分のスマホを指先で叩く。
「そんなこと言ったって……どうすりゃいいんだよ? 俺には、LIMEなしの人間関係なんてわからねーよ」
たとえば――鬱乃森とどう接したらいいのか。
好きかもしれない女の子にどう近づいたらいいのか。
俺の問いに真剣な色を見たのだろう、父さんが少し考えてから言った。
「付かず離れず。相手との距離を意識するんだ。武術で言うところの『間合い』って奴だな。熱くなってる時は一呼吸置け。酒は飲んでも飲まれるな、だぞ。……って、未成年へのアドバイスじゃなかったか」
「間合い、か」
「LIMEは、間合いを管理してるんだよ。チャットからユーザーの感情温度を推定して、熱くなっているユーザーにはクールダウンの時間を与えるようにできてる」
「え、そうなのか?」
「ああ。といっても、最大でも数分くらいのことだけどな。『送信保留』って出たことはないか?」
「……いや」
「ほう。おまえはなかなか冷静なんだな。要するに、チャットで口論になる気配が感じられたら、LIMEは処理が重くなった『フリ』をして、送信を遅らせる。あまりにトゲトゲしたメッセージが送信されそうになったら、『送信保留』状態にして、送信者に再考を促すんだ。それでもダメなら、送信前にハラスメント警告を送る。メッセージの内容が攻撃的だとか、相手を侮辱する表現だとか、問題点を指摘するんだな」
「へええ」
「つまり、LIME上ではケンカできないようになってるわけだ。送信保留やハラスメント警告は、ユーザーにコミュニケーションのとり方について啓発するという意味合いもある」
「……よさそうに思うんだけど」
「まあ、LIME上のことだけを考えればな。だが、生身のコミュニケーションではどうだ? カッとなって攻撃的な発言をしてしまいそうな時に送信保留が付くか? 相手の悪口を言いたくなった時にハラスメント警告が出るか? そんなわけはない。俺も、昔は画期的な仕組みだと思ったんだけどな」
「今は違うと思ってるの?」
「ああ。生身のコミュニケーションをそれなりに積んできた大人が使う分にはまだいいだろう。だが、LIMEで人間関係を学ぶ世代が増えてくるとどうだ? LIMEに手取り足取りされながらじゃないとコミュニケーションが取れない奴が、今急速に増えている」
他人事じゃない……と思った。
「人間同士の関係ってのは、
返す言葉がなかった。
父さんの言うコミュニケーションの間合いだのタイミングだの、俺にはわかっているという自信がない。
生身で会話をすると、何かが噛み合わない感じがある。
でも、仕組みを聞けばわかる。
LIME上でのチャットがうまく行きやすいのは、LIMEがタイミングを調整しているからだ。
一方、生身での会話にそんな便利な機能はない。
だから、間の抜けた会話になる。
会話が、居心地の悪いものになる。
それを防ごうと、俺たちはLIMEでの事前連絡を怠らない。
いきなり話しかけるのはマナー違反で、相手を驚かせないよう、気まずくならないよう、事前に段取りをつけておく。
父さんが、俺を興味深そうに見た。
「……ふぅん? 俺の話がわかってるみたいだな。俺の知らないところで、息子がまともに育っていた。父親としては嬉しいね」
「どうかな……」
俺だって、鬱乃森のことがなければこんなことは考えてもみなかっただろう。
ビールを飲みながらテレビを見ている父さんを残し、俺は風呂に入ることにした。
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