スピーカーからチャイムが鳴った。

 一限目が終わったのだ。


(サボってしまった……)


 授業のサボりなんて初めてのことだ。

 俺は、まるで足場がなくなったような不安感をおぼえた。

 授業は出るのが当たり前。これまで確かだったその「足場」がぐらついている。

 このサボりによってみんなから叩かれることになるのか。

 それとも、鬱乃森の言うように誰も俺たちのことに気づいていなくて、これまで通りの日常が続くのか。

 どちらにせよおそろしい。


 そんな俺の内心の動揺には気づく素振りも見せず、鬱乃森が言った。


「奈緒、ユージン。普段の教室では、わたしには話しかけないでね」

「あ、ああ。目立つしな」

「えー。せっかく友達になれたのに」


 俺は素直にうなずき、柚木は頬をふくらませる。


「……ところで、ひとつだけ聞きたいことがあったわ」


 鬱乃森が意味ありげに切り出した。


「なんだ?」

「何?」

「あそこに……」


 鬱乃森は、そう言いながらクラスの後ろの方の席を指さした。


(あそこは……)


 誰の席だったっけ?


「先週まで誰がいたか、覚えている?」

「…………いや」


 空席ができていること自体に気づいていなかった。


「あ、あたし覚えてるよ! たしか……戸塚?」

「正解。戸塚亮くんね」


 言われて思い出す。


「そういや、そんな奴もいたな。グルチャではあんまり見かけなかったけど。そいつがどうかしたのか?」


 俺が聞くと、鬱乃森は少し目を伏せて言った。


「彼、LIMEの返信が遅くてね。何度も書いては直しているうちに、返事ができなくなっていたようね。いつもスマホを見て、青くなっていたわ。そして、ある日を境に学校には来なくなった」

「まさか……それだけのことで?」


 柚木が信じられないという顔をする。

 だが、俺にはそいつの気持ちがわかる気がした。


「つながってないならいないのと同じ。それが今の世の中なのよ」


 鬱乃森の言葉には、これといった感情はこめられていない。

 ただ、事実だけを確認する言葉だ。


「今週末にでも先生が机を片付けて、それでおしまい。誰も彼のことを思い出すことはない。次の学校に馴染めるといいわね。生きていれば、だけれど」


 そのセリフに、俺と柚木が顔をこわばらせる。


「さすがにそんな……」

「可能性は3つかしら。転校した。不登校になった。自殺した。ああ、もうひとつあるわね。彼は自分を無視したクラスメイトたちを怨み、着々と復讐の準備を進めている。合法的に手に入るものでも、工夫しだいで武器になるものは多いわ。日本が銃社会じゃなくてよかったと思わない?」

「お、脅かさないでよ!」


 柚木が身体を抱いて震え上がる。


 俺は、鬱乃森に聞いた。


「おまえはどうなんだよ。おまえだって、誰ともつながってなかったじゃないか。もしかして、誰かにいじめられてたり……」


 俺の言葉に鬱乃森が首を振る。


「あなた、好きの反対は何かわかる?」

「……嫌い?」


 違うんだろうな、と思いつつも、他に思いつかなかったのでそう答える。


「無関心、よ」


 鬱乃森が小さく息をつく。


「つながってない人には関心がない。何かの折りに目についても、つながってないからどうやって話しかけたらいいかわからない」

「嫌われることすらないってことかぁ。さびしいね、それ」

「そうか? 嫌われるよりはマシな気もするが……」


 悲しそうな顔で柚木が言うが、俺は首を傾げていた。


 そんな俺に、鬱乃森が言う。


「LIMEはハラスメント発言を人工知能で検知して非表示するようになってるから、つながってない人の悪口を書くこともできない。だから、一昔前みたいにいじめに発展することはほとんどない。人工知能にはわからないような、仲間内の陰口みたいなものはあるけれど。それだって、みんながその人に対して認識を共有してるからできることよ。認識が共有されていない人についていくらほのめかしたところで、他の人がわからなければ意味がない」

「いじめがなくなったのはいいことだろ?」

「でも、その結果として、つながってない人との間には、何の関係も持てないことになった。人は、自分に関係がないことには無関心になるわ。だって、ただの通行人と同じじゃない」

「な、なるほど……」


 鬱乃森のセリフには説得力があった。

 なにせ、こいつ自身、クラスメイトから存在を認識されていなかったのだ。


「それにしたって、目の前の人間が見えないなんてありえるのかよ」


 俺は、自分が鬱乃森に気づいていなかったことは棚に上げ、思わずそう聞いていた。


 だって、そうだろ?

 俺はたしかに鬱乃森に気づいてなかった、あるいは気にしてなかったかもしれないが、他のクラスメイトまで全員がそうだとは思えない。


「心理学に、『見えないゴリラ』という実験があるわ。参加者にキャッチボールをさせ、パスの回数を数えさせる。その参加者の間を、ゴリラの気ぐるみが堂々と通り抜けるの。課題が終わった後に、参加者にゴリラが通ったことに気づいたかと聞く。参加者のうちどのくらいの人がゴリラに気づいていたと思う?」

「そりゃ、たいていの奴は気づくんじゃないか?」


 参加者の後ろならともかく、間を堂々と通ったんだろ。


「半数の参加者が、ゴリラに気づかなかった。有名な実験で、ネット上で動画が見られるわ」

「マジかよ」

「でも、半数は気づいてたんでしょ?」


 柚木が鬱乃森に聞く。


「そうね。たしかに、全員が全員、気づかないわけではないわ。ただ、気づかない人も多いということ。グルチャで話題にするためには、複数のクラスメイトの間で共通認識になっている必要があるから、知らない人がいるかもしれない話題は避けるでしょう?」

「まあ、それはそうだな。マイナーな話題は、わかりそうな人にしか振らない。クラスのグルチャには、もっとみんなにわかる無難な話題を振るよな。人の噂話も、クラスのグルチャみたいな人目の多いところじゃ避けるだろうし」


 でも、だからと言って、クラスメイトがいないことにされるなんてありえるんだろうか。


 俺の顔に、疑わしそうな表情を見たのだろう。

 鬱乃森が言った。


「嘘だと思うなら、明日実演してあげるわ」

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