「もってないのよ」


 女子の言葉に、俺はしばし思考停止した。


「もって……持ってない? 何を?」

「スマホを」

「……マジ?」


 俺は唖然とした。

 20年代も半ばをすぎた今の時代に、スマホを持ってない?

 それも、現役の女子高生が?


「ど、どうして?」

「理由が必要かしら」

「そりゃそうだろ。持ってなかったら何もできないじゃないか!」


 今時、何を買うのも電子決済だし、通学定期もみんなスマホに入れている。

 マンガもゲームも、今はスマホ上で読んだりプレイしたりするのが常識だ。

 教科書と連動したアプリも多数発売されていて、勉強すら、ペーパーレスでできてしまう世の中なのだ。


 俺の言葉に、女子はゆっくりと首を振る。


「そんなことはないわ。わたしは今の生活に満足している。スマホを持つ必要がないのよ」

「そんな、ことって……」


 たとえば、LIMEライブ(LIMEのストリーム配信サービス)で、罰ゲームとして、スマホを取り上げて生活させてみた、みたいなのは見かけたことがある。

 だけど、スマホなしでは困るからこそ、そういう企画が成り立つのだ。


 その放送でも、結局、スマホを返してもらって泣いて喜ぶ放送主、という図で終わっていた。


 なおその放送は、スマホを取り上げるなんてネタにしてもやりすぎだ、人権の侵害だと言われて炎上していた。


 コミュニケーションを取ることは、現代を生きるすべての人の権利であり義務でもある。

 放送主だけが困るなら、百歩譲ってよかったとしよう。

 だが、放送主に連絡を取ろうとして返信がもらえなかった人は、かなり不快な思いをしたはずだ。


 せっかくコミュニケーションを取ろうと思ったのに、その気持ちを無下にされたらと思うと、他人事なのに胸が痛む。


(いや、それだけじゃないな)


 連絡がつかないということは、何をするにも置いていかれるということだ。

 今、俺とこの女子が、誰もいない教室に置いてけぼりにされてるように。


(スマホを持つ必要がないだって?)


 そんなことはありえない。


「実際、おまえは今困ってるじゃないか。移動教室があったのにそれがわからなくて……」

「わたしは困ってないわ。困ってるのはあなたでしょ。これからどうするつもりなの?」

「そ、そうだった!」


 目の前の、控えめに言っても変わり者の女子の相手なんてしてる場合じゃない。


 といっても、どうすればいいんだ?

 クラスメイトにグルチャで聞く……反射的にそう思い、ズボンのポケットに手を入れスマホを探る。

 もちろん、そこにスマホはない。

 今俺のスマホは修理中で、LIMEショップにあるからな。


 俺は思わず頭を抱えた。


 そんな俺を見下ろしながら、謎の女子が小さく笑う。


「どうせ田邊の史跡巡りでしょ? 行かなくても問題ないわよ」

「いや、ヤバいだろ!」


 俺は椅子から跳ね上がってそう叫ぶ。

 たしかに退屈で、なんの為にもならない授業ではあるが、授業は授業だ。

 サボったりしたら、あいつはサボりだと言われ、グルチャで炎上しかねない。


 女子は肩をすくめて言った。


「教室なら空席が見えるでしょうけど、外ならわからないわ」


 たしかにバラバラで行動していれば、一人くらいいなかったところで教師は把握できないかもしれない。

 田邉はいちいち出席を取るような教師ではないし。


「だけど、他の奴らが気づくだろ?」


 クラスメイトたちはさすがに気づくと思う。

 俺はクラスでそんなに目立つ方ではないが、グルチャでは多すぎず少なすぎない程度に発言して、忘れられないようにしてるのだ。


 が、あろうことか、女子は俺の言葉を鼻で笑った。


「スマホに夢中で誰も気づかないわよ。わたしはいつもサボってるわ」

「常習犯かよ!」


 こいつ、とんでもない奴だ!

 助けてもらったから話してるけど、そうじゃなかったら近づかない方がいい。

 サベツされる奴と一緒にいると、自分までサベツされてしまう。

 ひとまとめに、おかしな奴だと思われる。

 そうなったらおしまいだ。

 他の奴らは俺たち抜きのグルチャをすかさず作って、陰口大会を始めるだろう。


 だが、女子は俺の疑いの視線を平然と受け止め、にやりと笑ってこう言った。


「じゃあ聞くけど……あなた、いつもはわたしがいないことに気づいていた?」

「えっ……」


 そ、それは……。

 たしかに、今日までこの女子の存在にすら気づいていなかった。

 これだけ話してるのに、いまだにこの女子の名前を思い出せない。

 いや、そもそも覚えてないのだろう。

 スマホを持ってないというからには、当然クラスのグルチャにも入ってない。そこで自己紹介もしていない。

 だから、顔に見覚えがない。名前を知っていようはずもない。


 言葉につまる俺に、女子が言う。


「その顔を見ると、わたしのようなクラスメイトがいること自体、気づいてすらいなかったのでしょう?」

「うっ……す、すまん」


 このクラスになった初日に、クラスメイト全員がグルチャに参加した。

 それ以来クラスのグルチャでほとんどの会話が流れてる。

 休み時間も、直接話をするのは少数派だ。

 みんな、スマホのチャットで話してる。

 俺も、グルチャの流れを見失うわけにはいかないから、休み時間はスマホを見てることが多かった。


「みんな、どれだけLIMEが大事なのかしら。休み時間の教室は、図書館のように静かよね」

「図書館なんて使わないからわかんねーよ」


 何か調べたいと思えばネットを検索するか、グルチャで聞くかだ。

 紙の本は、情報が古くて調べ物の役には立たないと、情報の授業で教えられた。

 印刷してから何年もアップデートされてない情報なんて、今時誰も見向きもしない。

 ネットの情報は当てにならない、なんて言われてたのは昔の話だ。

 今はネットの情報にも、専門家が内容を保証するメタタグを付けている。

 疑問点があれば、LIMEで専門家に問い合わせることもできる。相手が学生なら、たいていの専門家は親切に答えてくれるという。

 まあ、俺はそこまでやったことはないけど。


「なあ」

「何?」

「……こんなこと言うと、ひょっとしたら気分を悪くするんじゃないかと心配なんだけどさ」

「前置きが長いわね」

「す、すまん。ええっとだな、さっきからどうしても、おまえの名前が思い出せないんだ……。いや、その、これは、おまえを軽んじてるとかじゃなくて、LIMEのグルチャで自己紹介がなかったからさ……。いや、そのことを責めてるんじゃないんだけど……」

「要するに、わたしの名前を聞きたいのね?」

「う、まあ、そういうことだ。ご、ごめん。クラスメイトなのに名前を忘れるなんて変だよな……」

「何をそんなに恐縮してるのよ。わたしがスマホを持ってないのは説明した通りよ。最近は教師も点呼をしないし、モンスターペアレントを恐れて授業中に生徒を当てたりもしない。あなたがわたしの名前を知らなくても何の不思議もないわ、加美山かみやま友人ともひと君?」

「なんで俺の名前をフルネームで知ってるんだよ」

「あなただけじゃなく、クラスメイト全員のフルネームを覚えてるわ」

「えっ……グルチャは見てないんだろ?」

「クラス名簿があるじゃない。あとは、あなたたちがたまにする会話を見ていれば、誰が誰かは特定できるわ」

「なんか怖いな」

「そう? 普通でしょ。ネットで個人情報を特定したというわけじゃないんだから」


 それはそうか。

 普段の生活で、誰が誰かは自然とわかるようになる。

 言われてみれば、たしかにその通りだ。

 グルチャでも、見ていれば徐々に発言力のある奴のことはわかるようになるし。


「それは盲点だったな」

「それが盲点ということ自体がおかしいと、わたしは思うのだけど。むしろ、わたしのやり方のほうが自然なのではないかしら。スマホなんてなかった時代のことを考えれば」

「スマホがなかった時代ね。正直、想像ができないな」

「今あなたはそういう状況に置かれているじゃない。せっかくの機会なのだから学ぶべきだわ」


 そ、そういうもんか?

 そんなの学んだところで、スマホがある以上、意味なんてないような気もするが。

 原始人は火を起こすのに板と棒の摩擦熱を使ったかもしれないが、ガスレンジのある現代人がそんな方法を知ったところで好奇心を満たす程度の役にしか立たない。


 俺が首をひねっていると、女子がぽつりと言った。



鬱乃森うつのもりよ」



 急だったので、俺は女子の言葉を聞き逃してしまった。


「えっ?」

「鬱乃森椿つばき。あなたが聞いたんじゃない」

「あ、ああ。名前か。うつのもりつばき……でいいのか。えっと、漢字は?」

「こう」


 女子の白くて細い指が空中に漢字を書く。

 ややこしい、画数の多い漢字だということはわかった。


(こいつにはぴったりだな)


 ややこしくて画数が多い。珍しくて、口では説明しにくい名前である。


「書ける気はしないけどどの字かはわかった」


 俺がそう言うと、女子――鬱乃森がくすりと笑った。


「あなたが第一号ね」

「第一号って?」

「このクラスの生徒で、わたしに名前を聞いてきた、第一号よ」


 何が面白いのか、鬱乃森がくすくすと笑う。


 その笑顔に、俺は不覚にも見とれてしまっていた。

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