2
ようやく落ち着いた俺は起き上がり、近くの席に倒れ込むように座った。
全身に冷や汗をびっしりとかいている。
気持ち悪いが、目の前に女子がいるのにジャージに着替えるわけにもいかない。
俺は鞄からペットボトルを取り出すと、喉を鳴らしてお茶を飲む。
「はああ……」
俺は深くため息をついた。
そんな俺に、近くに立っていた女子が聞いてくる。
「大丈夫? 今までにもこんなことが?」
落ち着いた、優しい声だと思った。
(さっきまでこんな子が背中を撫でてくれてたのか)
思わず頬が赤くなる。
女子の問いかけに答えてないことに気づき、俺はあわてて口を開く。
「いや……今日が初めてだ。びっくりした」
彼女が俺をさすりながら説明してくれたところによれば、あれは過呼吸という奴だったらしい。
強いストレスで起こる急性の発作だ。
息苦しく感じるが、実際には酸素が足りないのではなく、息の吸いすぎで酸素が過剰になっているのだという。
「過呼吸の原因は激しい運動か精神的ストレスだと言われているわ。思い当たることは?」
女子に聞かれ、俺は答える。
「ああ……昨日、スマホを壊しちゃってさ。昨日からLIMEができてないんだ。未読無視してないか不安で、急いで学校に来たんだが……」
「なるほど。昨日から極度の不安に襲われていて、今朝急いで学校に来た。睡眠時間も短いんでしょう?」
「ああ。心配で眠れなくて」
「そのうえ、一限目は移動教室になって、教室には誰も残ってなかった。あなたはパニックになって過呼吸になったのね」
「どうも、そういうことみたいだ」
女子の理解の早さに驚いた。
女子は、俺の言葉にこくこくと頷く。
そして、
「――馬鹿じゃないの?」
いきなり、そんな言葉を投げつけてきた。
「……は?」
あぜんとして女子を見る。
女子は、俺のことを呆れ果てたという顔で見下ろしている。
「スマホなくしたくらいでパニクって過呼吸になって倒れるなんて。身体とスマホと、どっちが大事なのよ?」
ぐうの音も出なかった。
「で、でも、俺がLIMEを見てない間に何か起きてたらと思うと夜も眠れなくて」
「典型的なスマホ依存症ね」
女子、再びばっさりと言う。
「い、いや、過呼吸になったのは驚いたけど、普通だろ? スマホが壊れたんだ。自分が見てないところでどんなメッセージが飛び交ってるかって思ったら落ち着かないだろ?」
「いつ誰が自分の噂をしてるかわからないなんて、ごく当たり前のことじゃない。気にしすぎよ」
「で、でも、グルチャで存在感が出せてれば、陰口も叩かれにくくなるだろ?」
「あなたは、陰口を叩かれるのが怖くてチャットしてるの?」
「そういう面もあるってことだよ」
どうにも話が通じない。
(なんでいちいちつっかかってくるんだ?)
適当に相槌を打って聞いてくれればいいだけなのに。
俺だって、人の話を聞く時はそうしてる。
俺の話だって、そういうふうに聞いてもらえていいはずだ。
何も突飛なことを求めてるわけじゃない。ごく普通の、常識的なことを期待してるだけのはずだ。
(そんなに言い返されると不安になるだろ)
自分は認められてないんじゃないかって気分になる。
そういう気分には誰だってなりたくないはずで、だからこそ、みんな必死で相手を否定しないようにがんばってる。
(そういうもんじゃないのか?)
当たり前のことを当たり前にやってくれない目の前の女子に、俺は気分が悪くなってきた。
そこで、大事なことを思い出す。
「なあ、一限目は移動教室だったんじゃ?」
「たぶんね」
女子は肩をすくめてそう言った。
女子はあいかわらず完璧にクールで、慌てた様子がまったくない。
「ど、どうするんだよ!」
「どうするかと聞かれれば、サボる、と答えるわ」
「授業をサボる!? そんなことしたらすぐにグルチャで叩かれるぞ!」
グルチャは担任も見ているから、誰かが俺がいないと言い出したら、担任にも気づかれてしまう。
最近の学校は、生徒のルール破りには厳しくなった。
授業を理由なくサボったことがわかったら、最悪停学にすらされかねない。
そうでなくても、親に連絡が行き、スクールカウンセラー立ち会いのもと面談が行われることになるだろう。
どうすれば問題行動をなくせるかについて、本人の自発的な意欲を尊重する形で相談する……といえば聞こえはいいが、反省が見られるまでねちねちと対話を強いられるということだ。
教師のパワハラがなくなってひさしいが、その分、生徒が自発的に行動を修正することが求められる。
それでも直らなければ、厳しい処分が下される。
今の時代、コミュ力がないってことは、人として終わってるってことだ。
「嫌だぞ、週一で面談室送りなんて」
「大丈夫よ。一限目は田邊の日本史でしょう。いつもの史跡巡りなんじゃないかしら。学校近辺のさして言われも見どころもない史跡を巡ってうんちくを聞かされるというアレね」
「ああ……あれか」
聞かされて、げっそりする。
田邊のうんちくが途方もなく退屈なのだ。
「移動教室の連絡が、LIMEで回ったんでしょ。本来、教室で確実に全員に伝わるように連絡すべきだと思うのだけれど。横着しないでほしいわね」
女子が小さくため息をつく。
ということは、彼女も連絡を見逃したのだ。
俺は、彼女にすこし親近感を抱いた。
「ひょっとして、スマホを忘れたとか?」
「違うわ」
すっぱりと否定され、俺の中の親近感が砕け散る。
俺は頬をひくつかせて彼女に聞く。
「じ、じゃあ、俺みたいにスマホが壊れたとか?」
「違うわ」
「LIMEのアプリがバグったとか?」
「違うわ」
「まさか……LIMEのアカウントが乗っ取られた?」
「違うわ」
「グルチャを間違って抜けてしまって、戻れなくなった?」
「違うわ」
「そ、それなら……LIME上で不適切な発言をして、運営に使用停止を食らってるとか?」
「違うわ。何気に失礼ね」
「じゃあ、なんなんだよ!」
思わず声を荒らげてしまった。
女子は、小憎らしい動作で肩をすくめながら言った。
「もってないのよ」
その言葉に、俺の思考は停止した。
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