第11話 暗殺2
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朝から降る雨は夕刻には小雨となっていた。
隊士たちは雨と雨の合間を縫うように、今だ今だと屯所を出ていった。
「芹沢局長、僕達も早く行きましょうよ」
「林さんったら、そう急かさないでくださいまし。武士というのは慌てることなかれ。いつも沈着に事に当たらなければいけませんわ」
ああいえばこういう、と林はため息をついた。
今日は新撰組の宴会だった。
全員が揃っての宴会など、数ヶ月前の水口藩の一件以来の事だったので、隊士たちは浮足立っていた。朝からあいにくの雨もなんのその、お調子者の山崎など昼前には出ていっていたくらいだ。
「今日の宴会は、一応八月十八日の事件での活躍を祝って、という事ですよね」
「そうですわね」
さて、行きますかと芹沢はやっと立ち上がった。空からはポツポツと雨が振っている。芹沢は蛇の目傘を林に手渡した。
「差しなさいな」
林が傘を差すと、何食わぬ顔で芹沢が入ってきた。
「え?」
「こうしておけばわたくしの手が空いて、とっさに襲われても対応できるでしょう」
「なるほど」
「お二人は仲がよろしいのですねえ」
平間のじいやが宝石を見るように目を細める。林は照れて何も答えられなかった。芹沢が何か言うと思ったが、意外な事に彼女も頬を少し赤らめて俯いた。
「まあ、じいやったら。からかわないでくださいまし」
宴会は島原の角屋で行われた。
そう、角屋である。芹沢が一度酔った勢いで壊しに壊したあの店である。
林たちが到着すると、座はもう盛り上がっていた。酒が入っているようだ。無礼講という事だろう。
芹沢は上座に座り、場がまた一段と湧いた。
八月十八日の政変から、新撰組での芹沢の人気は不動のものとなっていた。
たしかに乱暴なところはあるが、ここ一番ではやはり頼りになる女傑である。
「全員集まったようなので、両局長からお言葉がある」
土方が場を仕切るように立上った。
それで静かになった。
「では、近藤局長から」
「はーい。みんなよく頑張ってますからぁ、今日はどんどん呑んでくださいねぇ。あ、だからって酔って暴れちゃあ駄目ですよぉ」
「あら、それってわたくしの事でしょうか?」
それで場がどっと湧いた。
近藤も笑っていた。
もしかしたら二人の溝はなくなったのだろうか、と林は思った。
「では次は芹沢局長から」
「えー、おほん」
芹沢は一度わざとらしい咳をして喋り始めた。
なんだか、いつもより真面目な雰囲気だった。
「みなさん、わたくしたちは町の人から壬生狼と呼ばれていました」
その声はまるで詩を吟じる朗々としたものだった。
「その前は『身ボロ』と。おほほ、酷い名前ですわね。『身ボロ』なんて。けれどもう誰もわたくしたちの事をそのような名で呼びません。わたくしたちは天下御免の新撰組です。会津藩からもしっかりと下知された素晴らしい隊ですわ。
わたくし達は、新撰組という一個の集団であります。そして同時に一人ひとりが義に生きる侍でもあります。今、隣にいる人を見てくださいまし。どうでしょうか、どのかたも一騎当千の強者ですわ。わたくしは皆様の局長という立場になれて、これほど誇らしい事はありません。我々は確かに狼かもしれませんが、それは義に生きる狼ですわ。誰かに後ろ指をさされても、壬生狼と言われても笑っておやりなさい。我々は天地正大、
それだけ言って、芹沢は杯を掲げた。
中に入った酒を一息に飲み下す。
その瞬間、万雷の拍手が彼女を包んだ。林も感動していた。やはりこの人こそが、侍の中の侍である、とそう思った。
「……良いことを言う」
ぎょっとした。
今まで気が付かなかったが隣には斎藤がいた。
「斎藤先生、いたんですか」
「……失礼」
杯を差し出される。注げという事だろう。
「斎藤先生はよく呑まれるんですか?」
「たまに」
という割に斎藤はよく呑んだ。林も付き合わされてそうおうに呑んだ。
いつの間に近くには永倉と山崎もいた。
「おおい、林。この前長州の間者を斬ったらしいな。よくやった、よくやった!」
「ほんまにな! まさか佐伯さんが間者だったなんてな!」
酔いが回って林は無駄に楽しくなった。このままこうしてずっと呑んでいたいと思ったくらいだ。こんな事は初めてだった。芹沢はいつもこういう思いをしていたのだろうか? いや、あの人の呑み方はあきらかに違った。
「ねえ、林さん」
と、芹沢が声をかけてくる。
「は、はい」
林は酔って崩れた居住まいを正した。
「わたくし、先に帰りますわ。林さん、おやすみなさい」
「はい、おやすみです」
おほほ、と芹沢は笑った。
そして何を思ったのか、林の頬にキスを一つした。
周りの永倉や山崎が歓声を上げる。
「えっ、えっ!」
「では、あまり呑みすぎずに程々にね」
芹沢が出ていくと、林はもみくちゃにされた。
「おおい、林。どういう事なんだよ。この永倉兄さんに教えろ!」
「なんやなんや、いつの間にそんな関係なんや!」
「ちょっ、やめてくれよ!」
「むう……」
斎藤がなぜか脇をつついてくる。意味が分からない。
こんな日が、明日も、明後日も、ずっと続くと思っていた。
林は杯に注がれた透明な液体を見つめる。
その水鏡に自分の顔が笑っていた。
それからどれくらい時間が経っただろうか。たらふく飲んで、食べた。
水鏡、それに映った自分の顔はずっと笑っていたように思える。しかしふいに、その水面が揺れた。顔を上げると斉藤がいる。
「どうしました、斉藤先生?」
斉藤は青白い顔をしている。まるで幽鬼のようで少し不気味だ。また体調でも悪いのだろうか。
「林……」
と、か細い声で言う。
「なんですか?」
「少し、酔った」
安心した、どうやら体調不良ではないようだ。
「ええ、僕もですよ」
林はちょっと照れくさかった。自分が酒に酔っているという状態が恥ずかしい。こと新選組において、強さというものは何より大切だ。それは剣の腕だけではない、酒も同じだ。
逆に怯懦は戒められる。この後年、臆病だという理由で切腹させられた隊士は多い。
「屯所に戻る。夜道の一人歩きは危ないからついてきて欲しい」
「良いですよ」
宴もたけなわと言ったところだろう。角屋を出て馴染みの芸者のところに行った隊士もいれば、酔いつぶれて眠ってしまっている隊士もいる。近藤は依然として上座を陣取っているが、土方や沖田などの試衛館の面々はどこかへ行ったのか、もういない。
林はゆっくりと立ち上がってみる。一つもふらつきはしない。酔っていても真っ直ぐに歩ける。自分はそういうタチなのだと初めて知った。
たとえば酔って暴れるものを大虎という。芹沢などがそうだ。それに比べれば林は猫だろうか。なんだかんだと好戦的になり、自然に刀に手が伸びていた。
――それが、林を救うことになった。
店を出て狭い京都の路地を歩く二人。その足取りは双方しっかりとしている。これで侍としての格好をしていなければ仲睦まじい夫婦に見えたかもしれない。あるいは夜半の逢引か。
林はご機嫌だった。鼻歌交じりだ。しかし会話はない。
「本当は……」
斉藤が沈黙に耐えかねたように口を開いた。これはいつも無口な彼女にしては珍しいことだった。
「なんです?」
「私の仕事は林の足止め」
「え――?」
一瞬、その言葉の意味が分からなかった。
しかし刹那――斉藤の刀が林の首筋を狙って抜き放たれた。
斉藤の流派は無外流だ。抜刀術に重点を置く一撃必殺の居合の流派。
――首を落とした!
刀を抜き放った瞬間、斉藤ですらそう思った。
しかし林はまったくの無意識レベルで自らも刀を抜いた。ずっと刀に手をかけていなければこれはできなかっただろう。その瞬間、何かが林の中で弾けた。
白刃が交差する。
火花が散ってみせたのは宵闇の中の錯覚であろうか。一撃の打ち合わせで二人は距離をとる。林はこの後に及んで自分がなぜ刀を抜いたのかも分かっていなかった。
茜空を流れる夕雲のごとく、ただ刀を抜いただけだったのだ。
少し状況が分かると、動揺が襲ってきた。どうして斉藤が刀を抜いている? そして首を狙われた? 焦りを隠せず、林は青眼に構える。しかし夕雲紅天流に青眼より生じる構えなどない。はっきりいつもの実力が出せていない。
このまま次の一撃がこれば自分が負ける。
しかし斉藤は残心をのこし刀をしまった。そして小さく笑う。
「冗談……」
ただの腕試しだ、と斉藤は言う。
「冗談ですって? それこそ冗談ではないです。死ぬところでした」
「死ねばそれまで、それもまた良し」
林には斉藤の言葉の真意が計り知れない。それで、彼女をにらみつける。
沈黙。
その果に、斉藤は軽く頭を下げた。まったの無防備。いちでも斬れる。それを見て林は納刀する。しかし警戒をとくことはできない。
「今のをいなせるなら……大丈夫」
「なにがですか?」
「林、一度しか言わない。すぐに八木邸に向かいなさい」
「八木邸へ?」
「長州が……狙っている」
それを伝えられた時、林の頭に血が登った。
――芹沢局長が危ない!
「すぐに行かないと!」
「私は……酔っていけない。林、一人で行って」
「承知しまた!」
矢も盾もたまらず林は走り出す。
少し考えれば斉藤の言葉にはおかしな点が大量にある。しかし林は芹沢のことばかり頭の中にあって、多くを考えることはしなかった。また、慣れぬ酔いのせいもあっただろう。
あるいは、はなから斉藤の言葉を疑っていない。斉藤が刀を抜いたのは本当に腕試しで、林を一人で行かせても大丈夫か確認するためだった、と。それはある意味で正解だった。
正直すぎるほど正直に走り出す林を見て斉藤は目を細めた。
――死なないでね、林。私は貴方を慕っている。優しい貴方を。近藤局長には見張っていろと頼まれたけど、貴方が悲しむところは見たくない。貴方の好きな芹沢局長は殺される、私達近藤派の手によって。それを後に知った貴方はいったいどう思うでしょう。だから、やれるだけやって。
それは赤心を誰にも見せぬ斉藤の、掛け値なしの本音だった。
彼女だって林が好きなのだ。
とどのつまり、斉藤が斬り掛かった理由もそこだ。まともに刀を握れない状態で八木邸に馳せ参じたところで試衛館から近藤についてきている手練の集団には一瞬で切り捨てられるだけだ。それならばいっそう、自らのこの手で引導を渡してやろうとそう思っただけだ。
だが林は必殺の一撃を難なく退けた。斉藤のこれまでの人生でこれと同じことをやってのけたのは沖田だけだ。それ以外の人間はすべて一撃の元切り伏せてきたのだ。
林ならばあるいは――。斉藤は林のそれに期待した。
その結果として芹沢が助け出されても良い。それで二人で手を取り合って地の果てにでも逃げてくれれば。思うに林は新選組にはふさわしくない優しいさの男だ。それは一見して弱さにすら見える。
弱さ――。それは芹沢だって同じだ。どうしようもない事をどうしようもないまま、酒に逃げるその姿は兼が強いだけの弱者であろう。
だから二人がいなくなればそれが一番良い。
好きな人の幸せを願う、それは武士として人として、そして一人の少女としても正しい選択に思えた。
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