第9話 八月十八日の政変3
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馬上の近藤は隠せぬほどの笑みを浮かべている。ゆっくりと馬を歩かせて、時折後ろを振り返り掛け声をかける。それに呼応する隊士たち。近藤はご満悦だ。
土方はその隣を歩いている。
全てうまく行った、と思った。
新撰組の内部にはあきらかに長州の間者がいる。その者たちに知られぬように、今日の出撃は内密にされていた。その結果として筆頭局長である芹沢にもこの事は伝えていない。
芹沢が昨晩、正体を失うまで呑んで寝たのは知っている。八木邸の家主である八木源之丞に確認しておいた。
つまり、この場に芹沢が馳せ参じることはない。
そうなればどうなるか。新撰組でこの政変の指揮をとったのは近藤勇ということになるのだ。そうれば新撰組という組織の主導権は完全にこちらが握ることになる。
芹沢は無用の長物となり、遠くない内に自ら破滅していくだろう。
「やっとね、歳ちゃん」と、近藤が土方にほくそ笑む。
「ええ」
と、土方も珍しく笑顔である。といってもそれは冷淡な薄笑いだが。
誠の旗をなびかせて、新撰組は歩く。その堂々たる姿には町人も度肝を抜かれた。もう、新撰組の事を『身ボロ』などと間違っても呼べない。
「にしてもねえ、長州さんも良い時に反乱を起こしてくれたわ」
近藤はこういった運の良さがあった。全てが終わってしまうと、まるで自分の思い通りに事を進めていたようにも見えた。
長州の反乱、というよりも発端としては長州が出した偽の勅命に対して、それを看破した会津藩と薩摩藩が手を組み、政治の舞台から長州を引きずり降ろそうとしているのだ。
現在、会津薩摩の連合と、長州は川を挟んでのにらみ合いが続いている。長州の側には攘夷派と言われる公郷が七人いるという。この際、この者たちも追い出してしまおうという事だ。
勝手にしろ、と土方は思った。
土方に政治の世界は分からない。彼はただ敬愛する近藤を大名のような存在にする事だけに心血を注いだ。
近藤はたしかに小物である。だが不思議と魅力のある人物でもあった。なぜなら彼女はその自身の小物さを他人に悟らせない。外面だけは良く、一見では冷戦沈着な大人物に見えるのである。
しかし付き合いの長い土方は知っていた。今度の中には様々な、悩み、不安、劣等感が渦巻いているのだ。それを愚痴にも出さず、黙々と高みを目指す近藤が土方は好きだった。
御所の
槍や鉄砲を持ち、いかめしい甲冑姿で人の垣根をつくっていた。
「何者であるか、名乗れ!」
先頭にいた土方には槍が。馬に乗る近藤には鉄砲の口が向けられた。
「あらあら、私たちは会津藩お預かり、壬生の新撰組ですよぉ。本日は中のお花畑の警護に来ました。さあさあ、門を開けてくださいな」
「新撰組だと? 知らんな、帰れ!」
このにべもない言い方に土方はかちんと来た。
「なんだと、我々新撰組を知らぬとはどこの田舎侍だ!」
これは土方が一番言われて嫌な事である。だからこそ、相手を罵倒する時にとっさに出てしまったのだ。
「田舎侍だと! ふざけた物言い、さてはお前たち長州の決死隊であるな! ここは絶対に通さぬぞ!」
「あらあら誤解ですってば」
少し後ろで沖田がクスクスと笑っている。土方さん、言い過ぎですよという事だ。
「とにかくお前たちは即刻立ち去れ! ここの警護は我々だけで十分だ!」
もちろん、この会津藩のものたちも新撰組を知っていた。だからこそこうして中に入れまいとしているのだ。
会津藩からすれば新撰組など、いきなり京都に現れた得体の知れぬ集団である。それなのになぜか会津候の寵愛を受けて散々に目をかけてもらっている。それが許せず、ともすれば新撰組は嫉妬の対象だった。
「さあ、帰られたし!」
ざっと見積もっただけで蛤門を守っている兵士は一○○人以上。一方でこちらは五○人。数は半分である。無理やり通る事もできない。いや、それどころかこんな所で仲間同士の戦闘などしようものなら大問題だ。
――どうしましょうか。と、近藤は土方に視線を送った。
土方は考えた。まさかここでおめおめと帰るわけにはいかない。しかし手がないのである。こんな時、何か決定的な起爆剤があれば……。
そう悩んでいると、隊列の後ろの方がにわかに乱れた。なんだ、と目をやると勢いのある神々しい白馬が力強くこちらに走り込んでくる。
二列になっていた隊士たちが左右に散らばり、馬のための道を開けた。
誰かが「芹沢局長だ……」と、つぶやく。
芹沢だと? 土方は驚きで一瞬思考が停止した。その間に、これは本当に止まれるのかという勢いで馬が接近してくる。
会津藩の者たちも慌てて鉄砲や槍を馬に向けた。
突撃する――と、その瞬間に馬はいななき、前足で速度を落とす。後ろ足が少し浮き、前足が曲がる。そして後ろ足が地面につき、今度は前脚二本を天高く上げた。その瞬間、操っている芹沢は馬を横向きにして、「はいっ!」と吠えるように叫んだ。
馬はすとんと脚を降ろし、馬上から
「遅れもうした。わたくし新撰組筆頭局長、芹沢鴨ですわ。本日は禁裏の護衛のため馳せ参じました。門をお開けなさい」
なんなのだ、これは。と土方は思った。
まるで悪夢を見ているようだった。なぜ芹沢がここにいる。
隣にいる近藤は、思わず芹沢に見とれているようだ。たしかに土方も気を抜けば芹沢の事を羨望の眼差しで見てしまいそうだ。
――格好いいのである。
今までただ乱暴なだけの女だった。酒を呑み、暴れ、誰も止められなかった。
だが今目の前にいる芹沢はなんだ? まるで舞台の中から飛び出してきたかのようなすこぶる堂々とした武者振りだ。しわ一つない浅葱色の羽織も、黒光りする具足も、少し長めの刀も。全てが人の理想とする武士そのものだった。
まさか芹沢は今まで自分を隠してきたのではないだろうか。たとえば忠臣蔵のように。会津藩に使える自分を、
たしかに新撰組のだんだらは、忠臣蔵のそれによく似ている。
そんなはずがない、と思いながらも土方はもしかしたら、と思っていた。
底知れない畏怖を芹沢に感じた。それは武士と農民をへだてたような、深い深い溝のようなものだった。
「新撰組など知らん、帰れ!」
一度言った手前、会津藩のものたちも撤回するわけにはいかない。意地を張って言い通した。
「なんですと?」
芹沢は、ゆっくりと白馬から降りる。
その瞬間、この馬が老馬であった事に土方は気がついた。とてもそうは見えなかった。それくらいの走りだったのだ。
「わたくしたち新撰組を知らぬとは無礼にも程がありますわ!」
芹沢は自分に向いている槍を鉄扇で叩き折ると、ゆうゆうと前に進んでいく。誰もがその堂々とした姿に恐れをなしていた。逆らったら斬られる――そういう雰囲気が芹沢にはある。
とうとう芹沢は門まで到達し、そこにいた甲冑を着込んだ男の首を、鉄扇で軽く叩いた。
「いいですか、あまりふざけた事を言いますと、この首が胴と離れ離れになりますわよ。聞いてますの!」
会津藩の者は腰を抜かし、「開門しろ」と力なく言った。
やがて蛤門が開かれた。
「皆様、行きますわよ!」
芹沢の号令と共に、新撰組が前に進み出す。と、するともう一騎、馬がこちらに向かってきた。乗っていたのは林信太郎である。
「あら、林さん。遅いですわ」
「いや、芹沢局長が早いんですって」
林の乗ってきた馬は隊内では誰も乗りこなすことができなかった暴れ馬である。こいつは刀だけでなく馬もできるのか、と土方は舌を巻いた。いや、それよりも驚愕すべきはその暴れ馬をちぎってきた芹沢と白い老馬だろうか。
芹沢は近藤ににっこりと笑いかける。
「さあ、これで入れますわよ」
「え、ええ。そうですね。うふふ」
近藤の笑いは引きつっていた。
片や芹沢の笑いはまったく屈託のない少女のようなものだった。中に入れて良かったわ、と派閥の争いなどどこ吹く風の、清らかなものだった。
それからは芹沢と近藤が馬を並ばせて先頭を歩いた。
だが後ろから見れば、どちらが新撰組の筆頭局長か丸わかりだった。土方だって悔しいが、貫禄が違う。芹沢は背中に水戸天狗党の金看板を背負ってここにいるのだ。場数も踏んでいる。
土方には盟友である近藤の気持ちが痛いほどによく分かった。
この時、近藤の芹沢に対する嫉妬は頂点になった。ともすれば、彼女のすすめる馬の足音が妙な拍子を刻んでいるように思える。
「こ・ろ・し・て・や・る」
そんなこと、おそらく露知らず。芹沢は並ぶと言いながらほんの少し近藤の先を馬で歩いていた。
結局この日、会津薩摩の連合と長州の激突はなかった。
新撰組も禁裏の内でつめたまま何もしなかった。
結果として京都から長州の者たちは追放され、攘夷派の宮様七人もそれを頼って長州に落ちた。
新撰組は会津藩から褒美をいただいた。
芹沢鴨の謹慎中の勝手な外出は非常時ということでお咎め無しとなり、むしろ蛤門の前での勇敢な行いが評価された。
こうして、八月十八日の政変は終わったのだった。
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