第9話 八月十八日の政変2


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 八木邸の離れに行く林は、格好だけはしっかりとしていた。刀の大小を差し、目立つ浅葱色の羽織に袖を通し、頭には鉢金を巻いていた。


 だがその格好のせいで、彼は一人だけ戦場から逃げ出した臆病者のように見えた。


「くそっ!」


 思わず鉢金を頭からはずし、地面に叩きつけてしまう。


 自分はいったいこんな場所で何をしているのだろう、と思った。


 ただ正義のため、世のために、師匠の元を飛び出してそれで無理をして京まで来た。


 それなのに今、自分は何をしている?


 こんな場所で一人残されて戦うこともできない。


 ……我に返って鉢金を拾い、八木邸の離れへ。


 まだ朝も早い時間である。とうぜん芹沢は寝ているだろう。いや、それは眠りとは言えないかもしれない。酒を呑み続けて気絶しているだけだ。


 新見が死んでからというもの、芹沢は三日三晩酒を呑み続けた。もちろん虎になり暴れることもあったが、たいていは涙をのむように酒を呑んでいた。


 いっその事、酒の相手でもしたい気持ちだった。これは林にとって初めての事だった。


 静かに離れに入り、芹沢の寝ている部屋に行く。しかし襖を開けるような事はしない。庭の見える縁側に、刀を抱くようにして座る。


 朝の冷たい空気を吸い込んで、ため息のように吐き出す。


 庭はこんな時でなければ目を奪われるほど綺麗だ。芹沢もよくこの景色を見ながら風流に酒を呑んでいた。しかしこの時、景色はとても空虚なものに見えた。


 しばらくそうしていた。


 すると突然、部屋の奥から声をかけられた。


「そこに誰かいるの?」


 芹沢の声だ。


「はい、居ます。林です」


「ああ……林さん。どうぞ」


「失礼します」


 芹沢は寝ているのかと思ったら、部屋の真ん中で軽い座禅を組んでいた。頭が痛いのか、顔をしかめて体が少し斜めになっている。


 部屋の隅には布団がたたまれている。自分でやったのだろう。


「妙な夢を見ましたわ……助女子の夢ですわ」


 芹沢は寝ぼけているのか、おそらく思ったままの事を口に出した。


「助女子って誰ですか?」と、林は気になっていた事をとうとう聞いた。


 それで芹沢は少し目を覚ましたようだ。「あら?」という顔をして曖昧に笑った。


「助女子はわたくしの姪っ子ですわ。一番上のお兄様の娘ですの……」


「そうなんですか。水戸にいるんですか、お元気ですか?」


 芹沢の表情に、さっと影がさした。


「死にましたわ」


「え……」


「あの子は、とっても可愛い子でしたわ。なんでか知りませんがわたくしを慕っていて、わたくしに付いて天狗党に入ったんです。けれど、そこで……」


「すいません。変な事聞いてしまって」


「良いんですわよ。わたくしたち天狗党は、攘夷実行のためにとにかく金子を集めようとしていましたわ。無理な押し借りもたくさんして……けれどそれも全て世がよくなると思ったから。そのための犠牲だと思って……。あの子は、助女子はわたくしのそんな姿を見て自分も同じようにしたいと。


 仲の良い者三人と共に、助女子は豪家の襲撃に行きました。しかしそこであえなく捕まって、その場で殺されてしまったのです。あとの三人は助女子を置いて逃げてしまいました。わたくしはその報告を受けた時、人間の愚かさを感じましたわ。どのようなお題目を唱えようと、結局人は人。自分の事しか考えられない。わたくしはその瞬間、世のため人のためという思想は、捨てました」


 おほほ、と芹沢は笑った。


「その後、どうなったんですか?」


 林は聞きたくなかった。


 だが、聞かなければいけないとそう思った。芹沢は今もまだ、その時の事を胸に抱えているのだ。その重りを少しでも降ろしてやりたかった。


「どうなった? わたくしは助女子を助けなかった三人を粛清として殺し、そしてわたくし自身も投獄されました。まあ、何のかんので助かりましたが、天狗党は抜けましたわ。それでこうして京にのぼり、新撰組に。おほほ」


 芹沢は話しながら、どんどん落ちこんでいるようだった。


 今にも泣き出しそうだ。


「芹沢局長……」


「嫌……カモちゃんって呼んで」


 その哀願を、林は聞き受ける。


「カモちゃん」


 芹沢は嬉しそうに笑った。


「ねえ、貴方って助女子に似ているわ」


 そう言われて、林は嬉しいようながっかりしたような自分でも曖昧な気持ちになった。だが合点がいった。芹沢は、姪っ子の面影を林に見ていたのだ。だから林をこんなに重用した。


「それにしても、今日は外が静かですわね」


 芹沢がしみじみと言った。


「それなんですが、なんでも長州が御所警護の任務から解かれて、今日から朝敵とみなされるようになったとかで、新撰組も禁裏の警護に行きました」


「なんですって?」


 芹沢の目が、鋭く光った。


「それはつまり、戦になったという事ですか」


「どうなんでしょうか、すいません僕にもはっきりとは分からないです。ただ会津藩から出撃の命令が下って、先程全員が出ました」


「全員って、わたくしと林さんはこうしてここに居るじゃありませんか!」


「ですから、僕たちは留守番です。芹沢局長は謹慎中ですし――」


「くうっ、近藤さんと土方さんの考えそうな事だわ。わたくしを除け者にして新撰組の実権を握る。ええ、良いでしょう。握りたければ握ればね。しかし長州との戦闘ですって!」


「いや、まだ戦闘になったわけでは……」


「こうしてはおられませんわ!」


 芹沢は元気良く立ち上がると、庭に出て井戸から水をくみ、それをガバリと被った。二度、三度して濡れ鼠になってから、「じいや! じいや!」と大声で平間を呼んだ。


「んもぅ! まさかじいやも出たの?」


「ここにいますぞ」


 慌てて平間が出てくる。その手には具足一式と、浅葱色に染められただんだらの羽織が持たれていた。


「準備が良いわね」


「はい、皆様がご主人様の事を蔑ろにして出ていったのを見て、じいやはたまらず、貴女様が起きられてすぐに出れるようにこうして準備をしていました」


「よろしい! わたくしたちも追って出陣しますわ! 林さん、うあまやに馬は何匹残っていますか?」


「見てきます!」


 この時、新撰組は三匹の馬を飼っていた。といっても内の二匹は八木邸のもので、新撰組が新たに調達したのは一匹の老馬だけなのだが。たしか近藤が馬に乗っていた。ならば二匹残っているのだろう。


 厩に行くと、林の思った通り二匹の馬が居た。


「この二頭、連れて行きますよ」


 林は厩の前で座り込んでいた馬詰の親子に言う。この親子は土方がどこからか拾ってきた。隊士としての仕事は一切せず、馬の世話やその他の雑用をしている。息子の方はそれなりに見れる顔をしているが、手が早く聞いた話によれば裏の家の娘を孕ませたらしい。


 無口な父親の方が、「お気をつけて」と、林に言う。


 二匹の馬は片方が白毛の老馬で、もう片方は栗毛の暴れ馬だった。この暴れ馬にはほとほと手を焼いているので、誰も好んで乗ろうとはしない。だから今日も置いて行かれたのだろう。


 だが、林は馬の扱いが得意だった。師匠との修行では武芸百般一通りを教わった。もちろん馬だってみっちりと仕込まれた。


 そもそも夕雲紅天流は鎌倉時代に成立した由緒正しい流派だ。その頃の戦場と言えば馬が主力であり、これを上手く扱えるものこそが強者だった。


 林は上手に暴れ馬をなだめながら、八木邸の離れに戻る。


 芹沢はもう準備を終えていた。まったく素晴らしいほどの武者ぶりである。見るものにはっと息を呑ませるほどの美しさだ。これが先程まで二日酔いだった呑兵衛と同一人物とはとてもではないが思えない。


「さあ、林さん。行きますわよ」


「しかし芹沢局長、局長は謹慎中の身ですよ。許可もなく出陣などするのはうまくないのでは?」


「黙らっしゃい! 朝敵となった長州との戦闘なれば、それは新撰組ならずとも尽忠報国の志(を持つ者であれば当然出陣するものです。わたくしたち武士は全員、幕府には山より高く海より深い御恩があるのですよ。ですから、謹慎など些細な問題ですわ。ここで出ずに、いつ出るというのですか!」


 この人は凄いと林は思った。


 他人から何を言われても意に介さない。自分の信じる義のために戦うことが出来る人なのだ。


 林は芹沢について行こうと思った。


 ここが、新撰組筆頭局長、芹沢鴨の檜舞台である。


 芹沢は暴れ馬の方に乗るかと思ったら、意外な事に白い老馬を選んだ。


「わたくしはこちらで」


「しかしそちらの馬は年老いておりますよ」


「いいえ、この子の方がいいですわ」芹沢が馬の頬を撫でると、馬は力強くいなないた。見ればその毛並みが若返ったように思える。「綺麗で、派手ですから」


 そもそも白馬というものは年を取ればとるほどに毛並みが白く、綺麗になっていくものである。そうなれば観賞用の価値しか持たなくなり、武家ではあまり尊ばれる存在とはいえない。どちらかと言えば雅な馬である。


 芹沢はその白い毛並みの馬に飛び乗る。


「さあ、行きますわよ!」


「はい」


 林も慌てて暴れ馬に乗った。


 壬生を出ると、芹沢の馬の速さに驚かされた。まるで馬が芹沢の期待に答えるように全力で走っているのだ。そしてそれを扱う芹沢も、また達人級の腕前である。壬生の地は京都でも片田舎であり、道も悪い。その悪路を芹沢はなんなく馬を駆る。


 人馬一体。


 その極地を林は見た。


 林の馬の方が若く、あきらかに早いはずである。しかし林は引き離れないので精一杯だ。


 芹沢の馬は神々しい白い光を放ち、風のように走る。その姿に林は心底惚れたのだった。


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