第9話 八月十八日の政変1
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それは、十八日の朝方に起こった。
壬生の前川邸に会津藩の公用方が飛び込んできたのである。
林を含め、平隊士たちは何だかよく分からないままたたき起こされ、戦の支度をはじめさせられた。
「なんやねん、こんな朝っぱらから……ふわぁ」
あくびを噛み殺しながら、山崎が文句を言った。
「さあ、今から訓練でもやるんだろうか」
「おいお前ら、さっさと準備をしろ。
だらだらと準備をしている林たちに、叱咤の声がんだ。
「あ、永倉さん。おはようございます」
林は新見錦が死んでからも、この永倉新八だけは近藤派の中で嫌いになれなかった。もともと兄貴肌の永倉の事は好きだったし、言葉にこそ出さないが新見の事は申し訳なく思っているようだった。
あとで聞いてみれば、新見は隊の公費を使いこんでいたという事も発覚した。確かに切腹させられても仕方はない。
だが、理解はできても納得はできないのが人間というものだ。その苦汁を飲んでしっかりと手を下した永倉は大人なのだと林は思った。
「永倉先生、いきなり朝っぱらからなんなんや、これ?」
「今に分かるさ」
そこら中から顔役たちの声が響いてくる。とくに声を荒げているのは土方だ。
林はここの所、土方がとくに苦手だった。おおかた新見の切腹の主導をしたのはこの女なのだ。
「ほら、お前らちゃんと羽織は着ておけよ。俺たちの晴れ舞台なんだから」
永倉はそう言って、他の者を起こしに行く。
はて、なんの事だろうかと林たちは首を傾げた。
新撰組の隊士たちは壬生寺の境内に集められた。
まだ朝靄が立ち込めるような時刻である。何人かの平隊士が松明を持っているが、それはあたり全体を照らす事はせず、かろうじて近くの人間の顔が見える程度の灯りだった。
「よし、全員集まったな。点呼をとる」
一部の狂いもなく整列した隊士たち。その隊士たちの前には近藤と土方、そして山南が立っている。局長と、副長二人である。芹沢の姿はない。
林は監察方という役目上、こういった場合に人員の確認をすることが多い。三人の監察方で手分けして平隊士を一人ひとり確認するのだ。
良かった、この時は全員がしっかりいた。
こういった場合に欠員が出れば、そのものはそく切腹となるのが新撰組という組織だった。だから林は緊急の点呼の度に少し嫌な気持ちになる。できれば誰も死ななければいいのに、と思うのだ。
明らかな敵を殺すことは構わない。だが同じ釜の飯を食べた仲間を殺すのはさすがに忍びないものだ。
「全員、居ます」と、林は土方に報告した。
「そうか」
土方は言ってから、鼻で笑うように付け足した。
「ああ、いや一人いないな。筆頭局長は離れでお眠りかな?」
「さあ、僕は知りません」
林はそれだけ言うと、隊列の中に戻った。
まったくなんてねちっこい女だろう、と林は思った。まさに女の腐ったようなやつだ。とはいえ……そこまで嫌ったような素振りをしてみせても、根から土方を嫌いになれない。それは林がお人よしだからだろう。
全員に鉢金が配られた。その金属部分には誠の文字が彫られている。新撰組の文字である。
それを貰って、隊士たちは子供のように喜んだ。そこらじゅうから浪人を集めたから、隊の中にはこれまで貧乏をしてきた者も多い。こういうふうに何かを貰うだけではしゃいでしまうのだ。
「この鉢金は近藤局長が諸君に買い与えたものだ。命大事に、というお気持ちの現れである。全員、心しろ!」
土方の声で全員が羨望の目を近藤に向ける。
「はあい、では皆さん集まりましたね」
恥ずかしそうにあたりを見ながら、近藤がほんわかと全員に伝えるような口調で言う。
それで、ぴしゃりと全員が口を閉ざした。
「わたし達は今から、禁裏のお花畑に行き、そこを守護します。といいますのも、わる~い勤皇派である長州の者たちを、政治の舞台から一掃してしまおうという事になったの。だから今日から長州藩は御所の警護の任務を解かれて、尊皇派の公卿様も追放されることにあいなりました!」
おおっ、と歓声のような声があがる。
長州というのは尊王攘夷派でも一番の代表格だ。だから他からは当然嫌われていた。これまでは曖昧であったが、この政変を堺に長州ははっきりと朝敵と呼ばれるようになった。
「つまりどういう事や?」
「つまりって?」
「せやから、長州のやつらを追い出してどうなるんや? そもそも攘夷だのなんだの言うけど、わいらも一応攘夷派って事でやっとんのやろ?」
確かに新撰組も攘夷思想という事になっている。この時の新撰組は会津藩のお預かりであって、彼らがはっきりと幕臣と周知されたのはこれより一年後の池田屋事件の後だった。
「けど長州は敵なんだろ? 芹沢局長も言ってたよ。長州は幕府を倒して天皇を神輿に掲げて、その実自分たちが実権を握ろうとしてるって」
「ほおん。頭の良い人は言うことがちゃうなあ。わいはよく分からんから、まあ、やれ言われた事をやるけど」
あまりに突然な事だったので、隊士たちもざわついている。それを「静かにしろ!」と土方が叫んだ。
「はいはい、みなさん。思うことはそれぞれ色々あるでしょうけど、今はとにかく行きましょうね。出陣ですよ~」
おおっ、気合の入った声。
林はその熱狂を、ある意味では山崎と同じ少し冷めた位置で見ていた。
近藤が馬に乗り、先頭を行く。
壬生寺の山門から二列縦隊で禁裏の蛤門(はまぐりもん)へと向かうのだ。殿(しんがり)は永倉新八と原田左之助。
原田はまだ幼い女の子だが、槍が達者だ。自分の身長よりも大きな重い槍を自由自在に振り回すことができる。直情的で短絡的。ようするにバカだが底抜けに明るい性格である。
「あ、お兄ちゃん」
「なんですか、原田先生」
原田は年上の人をお兄ちゃんと呼ぶ癖がある。だが原田は副長助勤の位であるため林からすれば先生呼びとなってしまう。
「今、永倉お兄ちゃんと言ってたんだけど、林のお兄ちゃんは残って方が良くないかって」
「え?」
どうしてですか、林は永倉を見つめる。
「芹沢局長はご在宅だ。さすがに一人にしておくわけにはいかないだろう」
「それで僕がおもり役という事ですか?」
「違う、お守り役だ」
永倉は林の肩をぽんと叩く。
「大丈夫、心配するな。こっちは俺たちでなんとかするさ。お前は芹沢局長が妙な事しないか見守っておいてくれ」
「……わかりました」
確かに芹沢は謹慎中の身だ。屋敷で大人しくしていなければいけないだろう。
だが林は少しだけ自分が除け者にされたような気もした。まるで厄介払いをされたような、そんな気持ちである。
誰もが芹沢の事を腫れ物のように扱っていた。そうなれば、親しい位置にある林も同じように扱われるのは必然だ。
だが林は山崎の言葉を思い出していた。
やれと言われたことをやる。そうとでも自分を納得させるしかなかった。
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