第8話 花と水1


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 謹慎を言い渡されてからというもの、芹沢は青菜に塩をかけたようにしおらしくなっていた。


 酒は飲まない、大声も出さない、そもそも外出すらしない。毎日八木邸の離れに籠って写経をしたり本を読んだり刀の手入れをしたりしている。


 その姿はどこか痛ましくも見えた。


 新撰組の中では意外な事に芹沢に対して好意的な意見が多い。


 そもそも倒幕側と言われる長州に金を包んでいた大和屋が悪いのであり、芹沢は尽忠報国の士としてそれを成敗しただけなのである、という考えが主流であった。


「ほんまになあ、けったいな話やでまったく」


「なにが?」と林は友人の山崎に聞いた。


 二人は前川邸の縁側に座っていた。


 8月に入り、京都の町にも夏がきた。しかし今年は冷夏で朝夜などは肌寒く感じるくらいである。あまり気持ちのいい夏ではない。


「だってそうやろ? 芹沢局長が悪いんやなくて大和屋が悪いんやって皆言っとるで。それなのに会津藩の方々は、何考えとんのやろうな?」


「実際、あの火事で怪我人は一人も出なかったしね」


 そして火が回らないように、事前に隣の家も打ち壊していた。芹沢は激情すると手がつけられないが、その間にも冷静さを保っている部分があるのだ。


「まあ、わいも本当は面倒やから屋敷でグダグダしとるつもりやったんやけど、見に行って良かったわ。土方副長に報告したらえらい真剣に話聞いてくれたしな」


「土方副長?」


「なんや、言ってなかったか。わい最近は土方副長にようもの頼まれるんや。って言ってもたいていが雑用やけどな」


「そうなのか」


 たしかに山崎はなにかにつけて痒いところに手が届くような仕事ぶりをする。気が利くというべきか。土方のような利発な女には気に入られるだろう。


「この前なんか隊内の人気を聞かれたで。やっぱりあの人も女なんやな。自分がどれくらい人気か知りたいんとちゃうか?」


「それは、つまりこの前の人気投票?」


「まああれ定期的にやっとるけどな。いつも沖田先生が一番やな。でも最近、二番手に芹沢局長も上がってきとるで。林もうかうかしとられんな」


「なにがさ」


「そりゃあ、なあ」


 山崎はからかうように笑い、林の頭をごしごしと撫でる。


「なんだよ、やめろよ。無礼だぞ、無礼!」


「おうおう、農民やのに無礼とはよく出たなあ。芹沢局長の影響かいな?」


「あ、言ったな。農民は言っちゃ駄目だろそっちは町人のくせに」


「ははは、言っとれ」


 こんな軽口は日常茶飯事であり、それによって斬り合いになったりするのも新撰組ではよくあることだった。先日も喧嘩で一人死んだ。殺した方の隊士も先程切腹になった。首を切ったのは斎藤一だった。


 見事な腕前であった。一発で首を落としていた。


 そんな事が午前中にあっても、昼をすぎればころっと忘れている。新撰組とはそんな集団だ。


「そういやさっき誰か来とったな。なんか知らへん?」


「知らないよ」


「けっこう身なりの良さそうなお侍さんだったけど、誰やろかあれ」


「会津藩の人じゃないのかな」


「うーん、そういう感じやなかったけど」


 山崎がそわそわとしている。何か良からぬことを企んでいるのだ。


「なあ、見に行ってみいへん?」


「嫌だよ」


 馬鹿馬鹿しい、と林は断る。好奇心は猫をも殺すという言葉がある。来客の話を盗み聞きするだなんて、そんな事がバレたら切腹させられても文句は言えない。


「でも林は監察方やろ? そういうのちゃんと調べとかんと」


「僕なんてお飾りだよ」


 実際のところ、監察方としての仕事はたいてい島田魁しまだかいという巨漢の少女と、川島勝司かわしまかつじという京都出身のどこか臆病な男がになっている。林の場合は仕事をしようにもたいていが芹沢のおもりのような事をさせられていた。


「でもええやん。行こうや」


 ようするに暇なのである、山崎は。


 しょうがないな、と林は立ち上がる。


 たいてい来客と言えば八木邸か、あるいは壬生寺の奥の間に通された。八木邸、前川邸、壬生寺は殆んど地続きと言っていいほどの近場にあり、むしろ二つの家は壬生寺の敷地内のようにすら感じられた。


 二人はどこかこそこそと壬生寺を覗き込む。


 誰もいない。寺の関係者ばかりだ。


 では壬生邸だろうと次はそちらに向かう。離れの方にはできるだけ目をやらずに、林は壬生邸を観察した。すると中から子供が二人出て来た。兄弟だろう、大きいのと小さいの。どちらも男の子だ。


「あ、ちょっと良いかな」


「なあに、林のお兄ちゃん」


 この二人はよく芹沢が遊んでやっているので、必然的に林の名前も覚えていたのだ。


「家の中に誰かいる? お客さんなんだけど」


「いるよ」と、兄の方が答えた。「新見さんと話してる」


「新見副長と?」


 あの人が公用として客をもてなすなんて珍しい。たいていは酒を呑んで下品に笑っているのに、大丈夫なのだろうか。


 と思っていたら離れの方から芹沢が出てきた。きちんとした出で立ちだ。浅葱色の羽織も着ている。


 外に出たのは久しぶりなのだろう。日差しの中で目を細めて、恨めしげに空を見ている。


「あ、まずい」


 そう言うやいなや、山崎は脱兎のごとく逃げていった。


 林は一瞬逃げ遅れて、芹沢に見つかってしまう。


「あら、林さん」


 芹沢はとことこと近づいてくる。二人の子供たちが芹沢に「遊んで」とせがむが、芹沢は「今は駄目ですわ」と、優しく断った。


 そのしおらしい微笑みを見るに、どうやら酒は入っていないようだ。


「ちょうど良いところに来ましたわ。今、水戸藩からお兄様が来てますの。林さんもご一緒にどうです?」


 芹沢の声はほんのすこしだけ震えていた。


 気弱な彼女が珍しくて、林はお供をするつもりで「はい」と答えた。それで安心したのか芹沢はほっと息を吐いた。


「では行きましょうか」


 八木邸の本宅に入り、奥の間へと向かう。


 閉められた襖の前で、芹沢は古式通りの挨拶として、


「水戸藩脱藩、芹沢鴨。入ります」


 と、言った。


 林もとっさに「林信太郎、入ります」と言う。


 中には新見と一緒に、一人の侍がいた。


 でっぷりと太った色白の男である。正座をしている脇には刀の大小が置かれており、どちらも思わず目がいってしまうほど綺麗な装飾をされたものだった。


「お兄様、お懐かしくございます」


「まあまあ、堅苦しい挨拶は抜きにして。座りなよ。林もよく来たな、ひひっ」


 新見は下品な引き笑いをすると、この座は自分が取り仕切るとでも言いたげだ。


 どうやら座っている侍は芹沢の兄らしい。そういえば肌が白くきめ細やかなところなどは芹沢に似ている。それにしては纏う雰囲気が物々しいが。兄妹でも性格は案外違うものである。


 芹沢が新見の隣に座り、林は少し後ろに腰を下ろした。


「そちらの、奥のかたは?」と、芹沢の兄が聞く。


「わたくしの右腕ですわ。林信太郎さん、なかなか腕が立つので護衛もかねていますわ」


 そうだったのか、と林は自分でも初めて知った。


「そうか。林くん、うちの妹がいつも世話をかけているようだね」


「い、いえそんな。僕なんてむしろ目をかけてもらっている立場です」


「そうかいそうかい。それでは愚妹よ、本題に入る」


「はい」


 と、芹沢は頭を下げた。


「お前の働く狼藉百般は水戸藩としても大変に迷惑極まりない。そもそもお前を牢から出したのが間違いだった。その後も京に上り将軍の手助けをするというからそのままにしておいたものの、なんだこのザマは。お前は我が家の評判をどこまで落とすつもりだ。京にいる水戸者の中にはお前の事を知っているものも大勢いるのだぞ」


「仰る通りです」


「我々としては、もしお前がこれ以上こんな事を続けるようなら考えもある。よいか、現在ここの水戸屋敷には大兄様もいらっしゃるのだ。これ以上わたしたちの邪魔をするな」


「お、大兄様が?」


「へえ、あいつ居んのか。元気か?」と、新見は旧知の仲間の近況を聞くように、軽く言った。


「ええ、元気ですよ。新見さんの事は気にかけておられました。『あいつはまだ妹と遊び呆けているのか』と言っておられました」


「はは、これは手厳しい」


 新見は恥ずかしそうに頭を掻いた。


 こんな事を言われた芹沢は、まるで針のむしろであろう。芹沢の肩は少し震えていた。


「良いか、今日のわたしはあくまでお前に釘を刺しに来ただけだ。だがな、これ以上勝手なことばかりするようでは、本当に容赦はしないぞ」


「はい……分かりました。あの、大兄様は助女子の事は何か言っておられましたか?」


「そんなものお首にも出さぬわ! お主は自分が何をしたのか分かっているのか、よくもまあおめおめとそんな事が聞けたものだな!」


 ひっ、と芹沢の肩がすくんだ。


 助女子というのはこの前にも大和屋で聞いた名前だった。


 どういう事情かは知らない。だがしかし、林は好意を持つ芹沢が一方的に糾弾されていることに深い憤りを感じた。


「そんなに言うことないと思います」


 と、思わず口から言葉が出てしまった。


「なんだと?」


 ギロリ、と芹沢の兄が細い目で睨む。


 武術にすぐれた林でさえ、一瞬たじろいでしまうほどの眼光だった。しかし勇気を振り絞って言葉を続ける。


「芹沢局長は頑張っています。この前の大和屋の焼き討ちだって、偉い人がどういうかは知りませんが、隊内でも京都の町人の間でも好意的に思われています」


「そうか、それは結構だ。しかし町人の人気をとるのが武士の仕事ではない。キミも武士ならばそれくらい分かるだろう」


 その高圧的な物言いに、思わず林は返す刀で答えた。


「いえ、僕は農民の出なので分かりません」


 その瞬間、芹沢の兄は林の事を鼻で笑った。


「農民不在が、口を出すな。これはわたしたち家庭の問題であり、そして同時に水戸藩の問題でもある」


「芹沢局長は水戸藩を脱藩しています!」


「それは屁理屈だ! わたしと大兄様は水戸藩で大事な位置をしめる役職にいるのだぞ。その妹が京都の町で狼藉を働くなど、他人から見ればどう思われるか!」


 無礼ぞ!


 と、芹沢の兄が刀に手をかけた。


 林もとっさに刀を抜こうとする。


「おやめくださいまし!」


 二人を止める、芹沢の大恫喝が響いた。


 新見は笑いながら耳をふさいでいる。こうなるのを予想していたのだろう。林は怒りに我を忘れそうになっていたので、耳をふさげなかった。


 耳の奥がキンキンと鳴っている。


「まあまあ、落ち着きなって。これで林は夕雲紅天流っていうすげえ剣術の使い手だ。こんな場所で斬り合いになっても、どちらも損でしょうよ」


「なんだ、それは」と、芹沢の兄は刀を置いた。


「なんでも鎌倉の昔から伝わる越中国秘伝の剣術だとか。戦国の世では有名な佐々成政のさらさら超えで先頭を努めたとも言われる流派らしいぜ。なあ、林」


 新見は眉唾話をするように笑いながら言ってくるが、林は曖昧に答えるしかなかった。


 正直知らないのだ。


「ふん、まあいい。わたしはこれで帰らせてもらう。いいな、愚妹よ。精々おとなしく謹慎していろ」


 芹沢の兄は席を立った。


「送りましょうか」と、新見が言う。


「あ、いやこれはご丁寧に」


 二人は出ていく。


 芹沢は今にも泣き出しそうな顔をして、唇を噛み締めていた。


 随分と長いこと、そこにそうしていたように思える。だが、実際のところはよく分からない。数分かもしれないし、数秒かもしれない。


 芹沢が口を開いた。


「格好悪いところ、見られちゃいましたわね」


「そんな事はないです」


「わたくし、お兄様たちと違って不出来だから、いつも怒られてばっかり」


 そう言って笑う芹沢の目は悲しげだった。


「あーあ、失敗しちゃいましたわ。大和屋の焼き討ち。みんな褒めてくれると思ったのですけど」


「……なぜですか?」


 とっさの事で庇ったが、あれは確かに林の目から見てもやり過ぎだった。


 そもそも林も芹沢もあの火の中で死にかけたのだ。林の左腕には未だ軽い火傷の痕がある。


「大和屋は長州に金を渡していたのは確実ですわ。厳密にはその過激派である『天誅組』に」


「それは、聞いております」


 しかし新見はそんなもの全て口実だと言っていた。


 いったい芹沢の真意がどこにあるのか林も分からなかった。


「大和屋が尊皇攘夷派である『天誅組』に金子を渡せば、他の金を持たない過激派も金を欲しがるでしょう。金がなかったので今まで挙兵したくてもできなかったようなやつらが、金を持てばどうなるか。それは――わたくしは天狗党の一件でよく知っていますわ」


「……そうなんですか」


「だからあそこは早く潰さなければならなかった。いえ、もう遅いかもしれませんが」


 きっと誰も芹沢の気持ちなど知らないのだろう、と林は思った。


 そうでなければ、誰もがこんなにもか弱い、今も泣きそうになっている少女を寄ってたかって責めるはずがない。


 色々言われる芹沢だが、彼女は彼女なりに必至でやっているのだ。


「林さん、わたくしはこれから離れに戻って寝ます。これ、ちょっと少ないけれど持たせてあげるから。外にでも行って遊んできなさいな」


 そういうと、芹沢は懐から五両差し出した。


 それを受け取ると、まだ生暖かい。


「芹沢局長」


 林は手の内でピカピカと光る金子を見つめた。


「なあに?」


「芹沢局長はどうして戦うんですか?」


 こんなに誰にも認められていないのに――。


 芹沢は、おほほと一笑に付した。


 そしてパシャリ、と大きな音をたてて鉄扇を開く。


「林さん、ここに尽忠報国と書いてあります。意味はご存知?」


「いえ、知りません」


「意味は読んで字のごとく、忠義を尽くして国に報いるという意味ですわ。わたくしにとっての国とは、水戸であり幕府であり、ひいてはこの日本という国全ての事ですわ。そのためには国をおかしくする異国人を打払い、この日の本を清らかな国に戻さねばなりません。わかりますか?」


 いいえ、と林は首を振った。思想関連の難しいことは分からない。


「つまりわたくしは義のために戦っているのです。林さんはそうじゃなくって?」


「僕は……違います。ただ何かしたくて、ただ誰かのためになりたくて。矢も盾もたまらず山を出ただけの、半端者です。自分には戦う意味なんてありません……」


 だからこそ、芹沢には憧れた。


 強烈なまでに人を引っ張っていく力。自分をしっかり持っている芹沢。この人ならば、と思ったのだ。


「若いというのは、そういうものですわ。でしたら今しばらくわたくしに付いてきなさい。そうしたら、いつか貴方の心にもしっかりとした義というものが芽生えますわ」


 それにね、と芹沢は付け足した。


「誰かのために何かをするというのならば、貴方もまた立派な義士ですわ」


 励ますように微笑んで、芹沢は部屋を出て行く。それを林は何も言えずに眺めていた。声がかけられなかった。なんと声をかけて良いのかわからない。


 だが、去っていく浅葱色の羽織をひっかけた芹沢を見て、この人は武士なのだと思った。


 誠の武士とは、義のために戦い、そして誰にも認められないものなのだ。


 林は芹沢の背中に、自分が目指すべき姿を見たのだった。


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