第7話 大和屋炎上2
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走る、走る、走る。
走りには自信があった。山で師匠と修行をしている頃には、毎日麓の町まで往復五里(現在でいうと約35キロ)を走っていた。
それは雨の日も雪の日も毎日繰り返された。最初こそ時間もかかり、師匠に叱れてばかりだったが、その内にかなりの速さになっていた。
といってもそれは修行というわけではなく、ただ師匠が呑む酒を買いに行っていただけなのだが。
大和屋まで行くと、町人が鈴なりに野次馬をしていた。
「遅かったか……」
屋敷はもう燃えている。それを消そうとする火消し達に対して、浅葱色の羽織を着た平隊士たちが刀を抜いて威嚇している。
「これ以上、一歩も進むことはまかりならん!」
火はまったく消されずに、ごうごうと燃えていた。
あたりはまるで昼間のような明るさで、一人一人の人間の表情まではっきりと見て取れた。
「おお、林じゃないか。遅かったな」
血相を変えて飛んできた林を見て、新見がニタニタと笑った。
「新見先生、なんなんですかこれは!」
「何って見て分かるだろ、焼き討ちだよ、焼き討ち」
「焼き討ちって、そんな事は見ればわかりますよ。なんでこんな事を」
「そりゃあお前、押し借りを断られたからだって、なんだお前聞いてないのか?」
「何も聞いてませんよ。警邏から戻ったら、芹沢局長が大和屋に押し借りに言ったって」
「まあ本当は押し借りなんて名目さ。最初からぶっ壊すつもりで来てんのさ」
「こんな事をして許されるんですか!」
「まあ、少なくとも見てる奴らは許してるんじゃねえかな。おおいそこの町人、あんまり近づくな。危ないぞ!」
言われてみれば、見物に来ている町人の顔はどこか愉快そうで、むしろもっとやれと言ったような雰囲気がある。
火事と喧嘩は江戸の華という言葉が昔からあるが、それにしたってここは古式ゆかしい京の都である。まさかここら辺の者が大火事を喜ぶとも思えないが。
「いいかい、林。芹沢は――」この時、たしかに新見は芹沢を呼び捨てにした。「お前が思っているよりもずっと敏いやつさ。今回の件だって、実のところただの焼き討ちの腹いせじゃあない」
「知ってます、大和屋は尊皇攘夷派と裏でつながっているんでしょう」
林が言うと、新見は感心したように「ほうっ」と唸った。
「そこまでは知ってるか。けれどな、他にも大和屋には焼き討ちされる理由がある。分かるか?」
「分かりません」
「あのな、太和屋は米や醤油を買い占めて値段を釣り上げていたんだ。だから町人には随分と恨まれてる。芹沢局長はそれを見かねて格差を是正するためにこんな荒療治をしているのさ」
「そ、そうだったんですか」
林が感心していると、新見はぎゃはぎゃはと大声で笑った。
「なあんてな、まったくあの嬢ちゃんはよく後から後から上手い言い訳が思いつくもんさ。本当はな、ただ暴れたかっただけだろうぜ。当の本人はまだ中で物をぶっ壊してるんじゃねえのか?」
「芹沢局長はまだ中にいるんですか」
「あはは、知らねえよ」
新見はそういうと、話を終えて他の隊士たちに「もっと火をくべろ!」と号令をかけた。
赤々と立ち上る火は天まで届きそうなくらいの勢いだ。新見はそれを見て笑っている。
「先生は芹沢局長を殺すつもりですか!」
「ちげえよ、バカ。俺が殺すつもりなんじゃねえ。あの嬢ちゃんが死ぬつもりなのさ」
「え――?」
「なあに、死にたいやつは死なせてやれ。おおい、お前たち! もっと火を燃やせ。芹沢局長はもっともっと派手にやりたいはずだぞ!」
そこら中から平隊士たちの怒号が上がる。火の勢いは一層増した。不幸中の幸いと言えるのは、今夜が風の少ない夜であった事だ。これでもし烈風など吹こうものなら、下手をすれば火は禁裏の内にまで伸びる。
「僕は助けに行きますよ!」
「勝手にしろ。けどまあ、芹沢局長の事だ。わざわざこっちから行かなくてもひょっこり出てくるかもしれないぞ」
「出てこなかったらどうするんですか!」
新見はにやけながら林の目を覗き込んだ。
面白い、とでも思っているのだろう。
――二人が死んだとしても、また一興。
「おおい、誰か水を持て!」
新見が叫ぶと、佐伯又三郎が手桶に水を入れて持ってきた。
「どうぞ、新見先生。あれ、林くん。いないと思ったら」
「かけてやれ」
「え?」
「そいつに水をかけてやれ。今から中に入るそうだ」
「中に?」
どうして、というふうに佐伯が首をかしげる。
「中に芹沢局長がいるんです――」と、林は言った。
「な、なら腰の物は預かっておこうか?」
佐伯が提案するが、林は首を振った。
林は武士ではない。農民だ。しかし武士である芹沢を説得しようとするときに丸腰では格好がつかない。
騒ぎを聞きつけたのか、周りに平隊士たちが集まってきた。こいつらは全員、芹沢局長が死んでも何も思わないのだろうか、と林は憤った。
「かしてください」
林は手桶をひったくって、頭から水をあびた。
それを見て新見はまた笑う。心底楽しそうに笑う。
「おおい林。お前まさか芹沢局長に惚れてんのか?」
林は何も答えなかった。代わりに、新見を睨んだ。
「やめとけやめとけ、あんな死にたがり。俺はあの嬢ちゃんの事をこんな小さい頃から知ってるが、あれはキの字だぞ。大酒のみの癇癪持ち。自分でも何がしたいのか分かってないんだぞ」
「だとしても、あの人は立派な武士です」
少なくとも貴方よりは、と林は思った。
この新見という男はいったい何なのか。
芹沢と旧知の仲らしいが、しかし芹沢のように攘夷思想など持っているようにも見えない。どちらかと言えば快楽主義に思える。日がな一日酒を飲んでいるだけのごく潰しだ。しかし最近では芹沢のかわりに押し借りなどにも出かけていて、そういう意味では現在新撰組の財政を担っている男でもある。
この男はいったいなんなのだ……。
新見は本気で芹沢が死んでもいいと思っているのだろうか、林には分からなかった。
「なんやなんや、林! 自分どうしたんや水なんか被って!」
「ああ、山崎か」
騒ぎを聞きつけてか、山崎が慌ててやってきた。
「あかんて! こんな火の手の中に入ったら焼け死んでまう」
「けど芹沢先生が中にいるんだろ!」
「え? いや確かにさっきまで屋根の上に登って騒いどったけど、さすがにもう出たんとちゃうか?」
まるで説得するように山崎が言う。
だが隣で新見が「出てないね」と断定する。
林も、同意見だ。
芹沢が死のうとしているという新見の考えは、なんだかすごく納得できた。これまでの彼女の奔放ともいえるあの行動の数々。きっと彼女は誰かに殺して欲しかったのだ。
狼藉を働き、会津候からでも切腹を言い渡されれば、彼女は見事成し遂げてみせただろう。そこに至るまで、人に迷惑をかけ続ける。そういう緩慢な自殺を彼女は続けてきたのだ。
「行きます!」と、林。
もう誰の話も聞かなかった。
燃え盛る門に向って突進する。
火が彼の周りを一瞬だけ囲んだ。
――しかしそれを抜けて敷地内へ。
あたりはまるで地獄絵図ではあったが、しかし屋敷は崩れ落ちてはいない。
早く芹沢を探さなければ。林の足は焦って絡まりそうなくらいだった。
「局長、芹沢局長!」
さすがは京都でも屈指の商家である。敷地内もかなり広く、壬生の前川邸と同じくらいはある。ところどころ建物や地面に穴が開いているのは、大砲で開けられたものだろう。
芹沢はどこだろうか。
今になって林は、あの日大阪で芹沢が言った言葉が理解できた。
――また死ねませんでしたわ。
あの時、芹沢はそう言ったのだ。
死にたい。そんな事を思いながら戦っていた芹沢を、林は可哀想だと思った。何をそんなに死にたいのだろうか。なにを……。
林がやっとこさ芹沢を見つけた時、彼女は膝を抱えて座り込んでいた。浅葱色の羽織はよく目立つ。綺麗な色だ。
一瞬眠っているのだろうかと思えるほどに芹沢は微動だにしなかった。
「芹沢局長!」
ゆっくりと、つまらなさそうに芹沢は顔をあげた。しかし声をかけたのが林だと認めると力なく笑って見せた。
「あら、林さん……」
「芹沢局長、こんなところで何をしてるんですか!」
「何って、火を見てますのよ。ほら、綺麗ですわ。……花火みたいで」
「綺麗じゃないです。こんなのただの火事です」
「火事……そうですわね、火事。わたくしが起こした。うふふ、ねえ知ってます林さん。火には罪を浄化する作用があるんですわよ。古事記に書かれた
「僕は……学がないので分かりませんが、芹沢局長の罪とはなんですか」
――どうしてそんなに死にたいのですか?
「わたくしは……ああら、それより林さんったら、局長だなんて他人行儀な。カモちゃんと呼んでくださいまし」
「ふざけてる場合ですか!」
「カモちゃん。ほらほら、言ってくだしまし。さんはい」
酔っているのだ。芹沢はしきりに腰に吊るした徳利に手をやっては呑んでいる。
「ねえ、見てくださいまし。この貧乏徳利。昔、
「助女子?」
「うふふ、懐かしいですわ。ねえ林さん、
「局長、早くしないと本当に死にますよ」
林は芹沢の細く、しなやかで、美しい二の腕を掴む。それで立ち上がらせようとするが、芹沢は山のように動かない。
「鴨ちゃん。そう呼んでくださるまでテコでも動きませんわ。おーっほっほ!」
虚しい笑いが、業火の中に消えていく。
林の頬をネバネバとした嫌な汗が滴り落ちた。
「カモ、ちゃん」
と、林は恐る恐る言う。
「え、なんですって?」
「カモちゃん! これで良いですか!」
芹沢は満足したように微笑んだ。
「よろしくってよ。それにしても熱いわねぇ、林さん」
芹沢は胸元をパタパタと開いては、閉じた。そのたびに豊満な胸が見え隠れする。
芹沢は虚空を見つめるように屋敷を見つめている。
行きますよ、と林は宝石への未練を断ち切るように芹沢を立ち上がらせた。芹沢はその場でよろけて、林の肩に抱きつくように腕を回した。
「あるけませんわ……」
「わがまま言わないでください!」
「あら、もしかしてわたくし、今怒られていますか? ……嬉しい」
「嬉しい?」
おほほ、と芹沢は笑う。
「ねえ、林さん……」
「なんですか!」
芹沢は体重の全てを林に預けている。
一介の武人として、体重を預けるというのはすなわち体の全てを担わせることである。これはそうとうな信頼がなければできない。
「ねえ林さん……」
と、芹沢はもう一度言った。
「だからなんですかって」
耳元で芹沢のしおらしい声が囁きかけてくる。
「このまま一緒に死んでくださる?」
林はその質問を聞こえないふりをしてやり過ごした。
やはりだ、やはり芹沢は死にたいのだ。
「林さん……」
芹沢は哀願するようにさらに林の名を呼んだ。
「局長」と、林は強い口調で言う。「貴女がそんな事を言ってどうするんですか。貴女がいなければ誰が新撰組を率いていくんですか」
それが答えだとばかりに、林は歩みを早めた。
芹沢はもう何も答えなかった。と、思ったら酔いつぶれて寝たようだ。
すやすやと寝息が聞こえてくる。だがその小さな寝息も屋敷が爆ぜるパチパチという音にかき消される。
眠っていれば、まるで天使のように清らかに見える乙女であった。
火の勢いは強さを増していた。もう屋敷の門すら火だるまになっている。この美しい天使にただ一つの火傷すら負わせてはならない。ましてはこんな場所で死なせてはならない。
林は獣のように吠えながら、業火の中に突っ込んでいった――。
そして彼らは地獄の炎を突破する。
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