第7話 大和屋炎上1
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林が数人の平隊士と共に警邏から戻ると、前川邸の中はいつもより寂しく思えた。
常日頃であればそこかしこに暇を持て余した隊士たちがいて、剣の稽古をしたり、たくましく口論をしたり、あとは何をするでもなくぐだぐだしていたりもした。
その隊士たちの姿が、明らかに少ない。となれば、いつもはうるしさいくらいの生活音も少なく、なんだか嵐が去ったあとのような寂しい静けさがあたりに充満していた。
「なんだかえらく静かですね、林先生」
平隊士が見ずとも分かる事をわざわざ口に出して言った。
「そうだね」
先日の大阪力士との乱闘以降、林は他の隊士たちから先生、先生とよく呼ばれるようになった。新撰組の中でも若い方の林であるが、他にも沖田や斎藤などの若くして実力をしめした連中がいるので、誰も変に年齢を考えて遠慮したり、生意気に思ったりすることはしなかった。
新撰組では実力こそが全てだったのだ。
「また芹沢局長が何かしているんですかね」
「あはは、そうかもしれないね」
しかし林は何も聞いていなかった。といっても芹沢の事だ、時々林にも何も言わずに妙なことを初めて、「驚かれましたか?」と朗らかに笑って林をからかうことがある。
この前も芹沢は突然壬生寺の池の水を抜いて、住んでいた鯉をそこら辺にいた隊士たちと一緒に食べてしまった。これは林も何一つ聞いておらず、気が付いた時には「あら林さん、遅かったですわね。これ、林さんの分ですわ」なんて言われて鯉をもらった。
おそらく今回もそんな事をしているのだろうな、と林は思った。
そう考えれば今朝から芹沢の様子はおかしかったように思える。突然林に「貴方、ちょっと警邏でもしてきなさいな」と、いつもなら手元に置いておく林をわざわざ遠ざけようとした。
「何も聞いてないですか?」と、平隊士が聞いてくる。
「なあんにも」
林たちは前川邸の大広間に入り、さて刀の手入れでもするかな、と座り込んだ。そこへ、淑やかに襖をあけて入ってきた女――ではなく一応は男が一人。
沖田だ。
「ひい、ふう、み。あら、三人しかいないんだね」
「お、沖田先生!」
平隊士の一人が顔を真っ赤にさせる。好きなのだろう。
沖田は手をふりふりと振って、「うんうん沖田だよ」と目を細めるように笑った。
が、その細まった目が、まるで満月のようにまんまるに開いた。
「あれ、林くんじゃあない? キミ、居たの?」
「はい、いましがた警邏から帰ってきたところです」
「いや、そういう話じゃなくて――」
まいったなぁ、と沖田はその長い髪をいじくらしく手の内でもてあそんだ。
「聞いてないの?」と、沖田。
「何をですか?」
「芹沢局長が隊士たちを大勢ひきつれて出て行ったものだから、てっきり林くんも一緒だと思ったんだけど。ふうん、行かなかったって感じじゃあなさそうね」
「なんだか嫌ですね。僕を置いてみんなで遊びに行ったんですか?」
「遊びっていうか……うーん。まあいいや。一緒にきたまえ」
「はい」
沖田について広間から廊下へ。
前川邸の奥座敷は近藤局長の部屋となっている。沖田はそちらの方へと歩いていく。
「土方さんにね、誰が屯所に残っているか確認して来いって言われちゃって。あはは、使いっぱしりだよ」
「どうして残っている人を確認するんですか?」
沖田は何も言わずに、ニッコリと笑った。
「近藤局長、土方さん。面白い人が残っていましたよ」
沖田はそう言いながら、近藤の部屋へと入る。林も続いた。
「面白い?」と、土方は不思議そうに言ってから、「なにっ?」とやはり驚いた。
「あらあら、林さん」
やはり近藤は局長の風格だ。林が来ても顔色一つ変えずにのんびりと笑っている。
「お前、なぜ居る!」
「え?」
「こら歳ちゃん。そんな言い方はないでしょう」
「……はい」
「林くん、芹沢先生には何も聞いていないのぉ?」
「ひとつも。何かあったようですね」
近藤と土方は二人で目配せをした。
そして何も言わずに以心伝心したのか土方が口を開いた。
「芹沢局長が
「押し借りに?」
なあんだ、いつもの事ではないかと林は思った。
大和屋といえば京都でも有名な商家である。林ですらその名前は知っていた。つまり大きな店に押し借りに行くから、総動員で行ったと言うわけだろうか。
「それも、大砲引き連れてな」
「大砲?」
この頃の新撰組には会津藩から借り入れている大砲が一門あった。有事の際にこれを使えという事である。
旧式であるがいつでも使えるように手入れがされており、隊内にはそれを専門に扱う隊士もいたくらいだ。
「脅かしにしてもちょっと大仰ですね」と林は思った事を口にした。
「脅しならな」と、土方は言う。
「というと?」
「あれは撃つ。そもそも押し借りっていう雰囲気じゃあ無かったな」
「いったい全体どういう事ですか」
「そもそも太和屋は長州の尊王攘夷派に多額の軍資金を渡している。つまりは討幕派という事だな」
「倒幕……」
幕府を倒そうとする思想の事であり、芹沢が一番嫌った存在でもある。
勤王(天皇を敬う事)は良い、攘夷(外国人を日本から排除する事)も良い。しかし倒幕だけはいけない、といつも言う。
芹沢は幕府を倒そうとするような人間は自分が人を支配したいと考える不届きものだと考えている。それを大っぴらに言うのならばまだいいが、尊王攘夷というお題目をたてて、まるで倒幕がその手段であるという態度が気に入らない。
目的と手段がはっきりと入れ替わっている。
幕府を倒して自分たちが支配者層になりたいのならばなりたいと、そう言えばいい。そういう男らしくない態度が、芹沢は嫌いなのだ。
といっても討幕派の下っ端にはそこまでの考えはないだろうが。
「そもそも尊王攘夷派に献金している太和屋に、我々新撰組が押し借りに行っても金などだすはずもない。芹沢局長もそれを知っているだろう。はなから撃つつもりで行ったのだ」
「だから僕は林くんも行ってると思ったんだけど」
「聞いてないです」
「でしょうねえ」
近藤はどこか安心したように笑っている。
「止めなくちゃ……」と、林は呟いた。
「え?」と、近藤。
「芹沢局長は会津藩から押し借りをするなときつく言いつけられているんです」
「そうだな」と、土方は頷いた。
そのため、ここ最近では土方と同じ副長である新見錦が芹沢に代わって押し借りを働いていた。酷い屁理屈だが、押し借りをするなと言われたのは芹沢であり、新見は関係ないという事だ。
しかしここにきて、真実はなんであれ押し借りをするという芹沢。どのようなお叱りを受けるか分かったものでもない。ただでさえこの前の角屋での乱暴狼藉や大阪での乱闘に懸念を示されているというのに。
「大変な事になりますよ」と、林は三人を睨みつけた。
「ええ、そうねえ」と、近藤は、笑った。
その瞬間、林は気が付いたのだ。こいつらはわざと止めなかったのだ、と。
林は山出しで教養はないし、鈍感であるがしかし人の気持ちには敏感であった。まるっきりバカという訳ではない。
先日、酒の席で新見錦が林に耳打ちした。
『なあ、林よお。くくく』と、引き笑いで新見は林に面白そうに言った。『新撰組には長州の間者も紛れ込んじゃいるが、獅子身中の虫もいるんだぞ』
その時は意味が分からなかったが、ここにきて理解した。
新撰組はもともと一枚岩ではないのだ。芹沢派と近藤派。二つの派閥がある。今まではなんとか足並みをそろえられたが、それが今崩れだしているのだ。
「止めたければ止めに行け。もう遅いかもしれんがな」
「土方さん……僕はただ悲しいですよ」
それは林の本心だった。
確かに芹沢は乱暴者である。しかしそれでも良いところは沢山ある。林は芹沢が好きだし、隊士たちもなんだかんだと言いつつも芹沢を嫌いではなかった。
だからこそ、こうした内部争いが見えた瞬間、林は悲しくなったのだ。
――どうしてみんな仲良くできないんだ!
しかし新撰組は人斬り集団である。林がただ優しすぎただけなのだ。
林は近藤の部屋を飛び出し、走り出した。その目には涙が滲んでいた。
土方はため息をついた。
あの男も
「あらら、嫌われちゃったわぁ」
「露骨すぎるんですよ、近藤さんは」
といいつつも、土方も反省していた。
林の事を舐めてかかっていた。まさか気がつかないだろうと思っていたが、こちらの意思を読まれた。だが今回の事ではっきりしただろう。新撰組は二つに別れる。
そして、間違いなく近藤派として使えるのは今も屋敷に残るものだけだ。その多くは江戸の試衛館にいた頃からの同士である。
「露骨とは言うけれど、歳ちゃんだってそうじゃない」
「そもそも波風立たない説明なんてできませんって。我々が芹沢局長についていかず、ここに居るのは事実なのですから」
「そうねえ。ま、林くんもいつか分かってくれるわ。全部終わった後にね」
「そうですね、籠絡するのはいつでもできます。それこそ終わった後にでも」
「あ、猫だ。ほら二人とも、外に黒猫がいますよ」
沖田が涼しげに笑いながら、二人の会話など我関せずと言った。
「あらあら、そうねえ」
全部終わったら、か。と土方は思いながら眺めるでもなく猫を見た。
いつ終わる……どう終わる? 芹沢を殺して、近藤が隊の実権を全て握って。それで終わりな訳がない。
自分たちはここからどこに行くのだろう? それは土方が考える事ではないかもしれないが。新撰組を引っ張っていくのは局長である近藤だ。自分はただそれを補助する。
そのためにならなんでもする。土方はそう誓っていた。
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