第5話 酒乱の芹沢3


       3


 その日は朝からあいにくの雨であった。


 京の雨はしとしと降る。どこか物悲しい。


 宴会の時間は夜としか定まっておらず、時計もない時代だからそれぞれが暗くなる頃にさて行くかと出かけた。


 場所は島原の廓内かくない角屋かどやだ。新撰組の屯所がある壬生村からならば歩いていってもそう時間はかからない。


「どの部屋ですの?」


 と、芹沢が聞いてくる。


「松の間です」と、林は答えた。


 松竹梅という言葉もあるように、この角屋でも松の間は一番上等な部屋だった。それに芹沢は満足したようだが、なんのことはない。本当は新撰組の隊士が多いからその大部屋にしか入らなかっただけだ。


 部屋に入ればもう到着しているものもいれば、まだの者もいる。偉いのは部屋に居る者の誰もが膳は用意されているのにまだ酒を呑んでいない事だ。ある程度人数が集まってから、と考えているのだろう。


 そこは芹沢も筆頭局長の身。あきらかに呑みたそうだが我慢した。


「林さん、他の方々は遅いですわねえ。はやく来ないと切腹ですわよ、切腹」


 これには周りにいた隊士たちもどっと笑った。


 しばらくすると水口藩の公用方がやってきた。あまり風采が上がらない小太りの男である。その男は部屋に入るやいなや、芹沢の前まで来て頭をついて謝った。


「まあまあ、そんな一介の武士がみっともないですわ。頭をお上げなさいな」


 芹沢は怒りっぽい性格ではあるが、相手が下手に出れば案外簡単に許してやる。竹を割ったような性格で、しかも遺恨はない。ある意味それは彼女の長所だ。


 さらにしばらくして、近藤、土方、沖田が入ってきた。


「あらあら、もうたいてい集まっているのかしら?」


「そうですわ、近藤さん。まったく遅いですわよ」


「ごめんなさいねえ。総ちゃんったら髪型がきまらないって」


「嘘ですよ。僕はいつもポニーテールなんですから。こんなのすぐです」


 両局長が揃ったということで、さすがに来ていないものは置いておいて宴会を始めようということになった。


 最初の挨拶をしたのは永倉だ。


 今回の席が設けられた理由を話す。そして最後に付け加えるように、


「さて、俺はそこにおられる水口藩公用方殿から、詫び状の返却をお願いされた。しかし詫び状を俺の一存で返すわけにもいかない。ですので芹沢局長、どうしましょうか」


「詫び状を? これまたどうして返せなどと?」


「この事が藩元に知らればいかに公用方といえど切腹は免れません。ですのでどうか、という事ですよ」


 水口藩の公用方は、部屋の隅で申し訳なさそうに丸まっている。


「どうしたものでしょうかねえ……。ああ、そうですわ。皆で決めましょう。多数決をとるんですわ。はい、じゃあ詫び状を返してあげても良い人!」


 芹沢が言うと、たいていの人間がおずおずと手を上げた。別に詫び状などどうでも良いのである。この宴会さえできればそれでいい。


「ではそういう事で。けどあの詫び状どこにやったか忘れましたわ」


「それならここにあります」


 答えたのは土方だ。


「ああ、じゃあ返してあげてくださいな」


 というわけで宴会は滞り無く始まった。


「みなさん、今回の宴会は水口藩の公用方からのご厚意で儲けられたものですわ。遠慮はいりませぬが、それぞれ場をわきまえて口論や喧嘩などはしないように!」


 まったく酔っていない時の芹沢は本当にもっともな事しか言わない。


 素晴らしい人物である。


 しかし酒が入れば、変わる。


 角屋の料理は美味く、酒も清らかな上等なものだった。それぞれ食事も酒も進み、やがてやはりと言うべきかそこかしこで口論などが始まる。


 最初は諌めていた芹沢も、そのうちに自分も酔ってきたのか目が据わってきた。


「ねえ林さん?」


「なんですか」


 林もあまり飲まない酒を呑んで、顔を真っ赤にしている。まったくこんなものの何が美味しいのだろうかといつも思う。


「どうして芸者はいるのに、仲居は居ないのでしょうね」


「え、さあ?」


 林には本当に分からなかった。たしかに膳の上げ下げをする仲居は一人もいない。いるのは遊びの相手をする芸者ばかりだ。


「ああ、なるほど」


 芹沢は気難しそうな顔をしていたが、何がなるほどなのか意地悪そうな笑顔を浮かべた。


「つまりわたくしたちが乱暴狼藉をはたらくものだから、怖がって座に上がってこないというわけですね」


「そんな事ないと思いますけど……」


「そうに決まっていますわ!」


 苛立たしげに酒を呑む芹沢を林は必至でなだめた。


 そんな二人からそれとなく近くにいた近藤などが距離をとりはじめた。誰もが芹沢が爆発するのは時間の問題だと思ったのだ。




「ねえ、歳ちゃん」


「なんですか、近藤さん」


「美味しいわね、このお魚」


 そんな事を言いながら、近藤はこちらに擦り寄ってくる。


 やれやれ、と土方は思った。これは少し露骨に芹沢から距離を置きすぎじゃないか、と。


「ああ、僕はこの茶碗蒸し気に入ったなあ。京都の食べ物は薄味ばっかりだけど、茶碗蒸しだけは江戸のより良いと思うよ」


「そうよねえ。うふふ、私も茶碗蒸し好きよぉ」


 土方は自分の前に出された食事をたいらげ、酒をちびちびと舐めていた。呑めないわけではないが好きではないのだ。


 それにしても、と土方は考えた。先程の芹沢の采配は見事であった。詫び状を返すかどうかを全員に聞いたのだ。普通、人の上にたつ者というのは他人に弱みを見せないものだ。だから何かを決める時も絶対に自分で決定をくだす。


 それは将軍だろうと藩主であろうと変わらない。もちろん意見を伺うようなことはあるだろうが、ああいうふうに他人の考えを全面的に取り入れるやり方というのは見たことがなかった。


 民主的、というのだろう。


 一歩間違えばかなえ軽重けいちょうを問われかねないが、しかし芹沢がやれば和気藹々とした談笑となった。そいう意味でも見事な采配というほかない。


「それにしても、芹沢先生は人気ねぇ……」


 近藤が小さな声で呟いた。


 その言葉にはドロドロとした嫉妬心が渦巻いているように感じられた。


 この人も、芹沢のように余裕を持てばいいのに、と土方は思ったが、そういう近藤も嫌いではない。


 近藤勇というのは不思議な人物だった。


 はたから見れば泰然自若とも冷静沈着とも見える。春風駘蕩というのが正しいかも知れない。どっしりと構えていてまさしく大将の器なのだが、その中身は他人が思うものとは違う。悪人ではない、しかし俗物であった。


 欲しいものは貪欲に欲しがる。


 他人には嫉妬する。


 しかし人の脚を引っ張るような事はしない。嫉妬した相手に打ち勝つためにありとあらゆる手を使い自分を高める。そうやって、彼女はここまできたのだ。


「今だけですよ」と、土方は答えた。


「どうしてかしらぁ?」


「あれは凶暴な馬車馬です。荒れ狂う道を曳くには乱暴な馬車馬が必要でしょうけれど、道が平坦になれば、町に入れば。そんな馬は必要なくなります」


狡兎こうと死して走狗そうくらる、ね」


 にやり、と近藤は目だけで笑った。


 実際、新撰組はもう黎明期を過ぎ、きちんとした隊としての成長期に差し掛かっていた。その時に、あまりに乱暴な芹沢が邪魔になることは目に見えていた。


 今回の水口藩からの苦情だって、その一つなのだ。


 今に新撰組に芹沢鴨は必要なくなる。そうなった時、新撰組を率いていくのは近藤である。


 近藤は実に嬉しそうに酒を呑んだ。まるで今か今かとその時を待ちわびているようだった。


 ――ガチャン、と膳が倒れる音がした。


 どうやら酔った隊士の一人が厠にでも行こうと席を立った際、脚を引っ掛けてしまったようだ。


 その次の瞬間、大声が鳴り響いた。


「不愉快ですわ!」


 まるで雷が落ちるような音がして、芹沢が自分の前の膳をひっくり返した。


 それきたぞ、と土方は立ち上がった。


 口論喧嘩をするなという言い出しっぺのくせにこれだ。まさに狂人なのだ。


「あら。あらあらあらあら。また芹沢先生の乱暴が始まったわねえ」


 隊士たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。


 芹沢は何が気に入らないのか、暴れに暴れている。林がなんとか止めようとしているが、まったく相手にされない。やがて林は弾き飛ばされて、部屋の柱に頭をぶつけて「いてて」とまともに動けなくなった。


「近藤さん、私たちも出ましょう」


「そうねえ」


 老人の平間も芹沢を止めに入るが、これも弾き飛ばされる。


 芹沢は狂ったように笑いながら「主をここに呼びなさい!」と叫び続けた。


 そのまま狂い死んでしまえ、と土方は思った。そうすれば全て解決するのだ。


 死んでしまえ、早く。そのほうが新撰組のためだ。


 あの日、京都へと向かう中仙道の途中で大きな焚き火をした日から、土方は芹沢が嫌いだった。だから今、死んでしまえとすら思ったのだ。


 人気のなくなった角屋には、芹沢の狂った高笑いが響き続けた。


 それは永遠に止むことはないように思われた。


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