第2話 大阪下りで芹沢金二百両を得る2


       2


 八木邸の離れでは芹沢がこんな時間だというのにもう酒を呑んでいた。


 素面でいられる時間よりも、明らかに酔っている時間の方が長い。完全に中毒である。


「ああ、林さん。ようこそようこそ」


 こっちへこい、と芹沢が手招きする。


 障子や襖は全て開け放たれ、風がよく通るようになっている。


 しかしそれでもなお、京都の春は暑い。


 芹沢は着物の胸元をはだけさせ、重たそうな鉄扇をゆうゆうと動かして自分で自分をあおいでいた。


「本当に今日は暑いですわね」


「そうですね」


「そんな時はほら、これ。冷酒ですわ。貴方もひとつ、いかがかしら?」


 芹沢が茶碗のような大きさのおちょこを差し出してくる。


 林は首を振って断った。


「そう、美味しいんですけど」


 芹沢は自他共認める酒癖の悪さを持っていたが、しかし固辞する人間に無理やり呑ませるような下品な酒飲みではなかった。断ればそうですか、とひいてくれる。そんな様子がいじくらしくて、林も時々呑んでみようかなという気になることもあった。


 そして飲み過ぎて、たいていはその後で吐いた。


「それで、今日は何の用ですか?」


「なあに、用がなければ呼んじゃ駄目かしら?」


「いや、そういう訳じゃありませんが」


 焦って答える林を見て、芹沢はいつもの甲高い笑い声を発した。


「冗談ですわ、冗談。ねえ貴方、将棋はできて?」


「え、いやそりゃあ、まあ。駒の動かしかたくらいは知っていますけど」


「じゃあそこで一緒にやってあげなさいな」


 部屋の隅の方で、新見錦と平山五郎が将棋を指している。表情を見るに、どうやら新見が優勢らしい。楽そうにあぐらをかきながら、ニタニタと笑っている。対して平山は隻眼の恐ろしい顔を、さらに鬼のように歪めてうんうんと唸っている。


「いやあ、本当に。平山先生はお下手で困る」


 新見が酒を飲みながら笑った。


 普通先生という敬称は目上の人間に対して使う。浪士隊では副長助勤以上の者に平隊士が「先生」と呼ぶものだ。確かに平山はその副長助勤であるが、新見はさらに上の副局長だ。バカにしている。


「さっきから平山ったら負けてばかりですのよ。新見も相手がいなくてつまらないっておっしゃるものですから、貴方を呼びましたの」


「そうなんですか」


 盤面を覗いてみると、たしかにひどい。新見の圧勝だ。平山の玉はもう裸同然で、むしろ詰める状況で新見が遊んでいるだけだった。


 駒の数が合わない。どうやら新見は金落ちでやっていたらしい。


 これはもう投了だろう、と林は思った。だがその瞬間、


 あっ!


 という間もなく平山は盤の脚に手をかけ、それをひっくり返してしまった。


「ああ、つまらん!」と平山は叫んだ。


「はい、これで五勝。どうする、次は金銀落ちでやるかい? なんなら飛車角落ちでも良いけど」


「もうお前とはやらん! 林、変われ!」


 平山に言われて、散らばった駒を集めていた林はじゃあ僕が、と次は新見の対面に座った。


 残りの駒は平間のじいやが集めてくれた。


「どれくらいできるんだい?」と、新見。どこか侮っているような表情なのはいつもの事である。


「いや、そんなに得意じゃ――」


「取り敢えず平手でやろうか」


「ちょっと、そんな隅でやってないで、わたくしからも見えるところでやりなさい!」


 芹沢に言われて、盤を移動させる。


「頑張ってね、応援してますわ」


 その言葉で林は俄然やる気を出した。


 が、駒を並べ終わった途端に庭から声がした。


「あらあら、将棋ですかぁ?」


 甘い砂糖菓子のような声だ。聞いていて胸焼けを起こしそうになる。


「どうしましたの、近藤さん。こっちに来るなんて珍しい」


 芹沢が少しだけ、近くにいる林にしか分からない程度に顔を歪めた。


「ちょっと問題があってね~」


 間延びした声で、むしろ問題などなさそうに近藤は言う。


 隣にはいつも影のように付き従う土方歳三の姿もある。何か気に入らないのだろうか、険しい顔をしている。


「まあ、そんなところに居ないで中に入りなさいな」


「じゃあ、お邪魔しますね」


 近藤はニコニコとその糸目を曲げて、庭先から離れに入ってきた。


 そこら辺に座って、「うふふ」と妖艶に笑った。


「芹沢さん、私達が最近京でなんと呼ばれているか知っていますか?」


「そりゃあ嫌でも耳に入ってきますわ。壬生狼でしょうに」


 壬生の狼――みぶろ。誰が言ったか、京人というのは風情のある名前をつける。壬生浪士の浪を同音の狼と変えたのだ。たしかに素行の悪い浪士隊の連中は、山に住む凶暴な狼と何も変わらないように見えるだろう。


「それが、それだけではないのです」


 口を挟んだのは土方だ。


 この土方という女、目から鼻にかけるような明晰さを持っている。知識というよりも知恵があり、思慮深く、また人を使うのも上手い。その上、剣の腕も文句なしとくれば向かう所敵なしの風格だった。


 しかしながら、近藤を尊び下にもおかない。自分は縁の下の支え役だと思っているようだった。


「私が聞いた話では、『壬生狼』ではなく、『身ボロ』と影で町人は我々を呼んいるそうです」


「身ボロねえ……」


 芹沢が鉄扇でトントンと肩を叩きながら、天井を見つめた。どうやら思うところがあるらしい。


 隣に座っている林は、恥ずかしくなって顔を下げた。まさに自分がその身ボロの一人なのだ。


 この名前は町人が壬生浪士隊の身なりの悪さを嘲ってつけたものだ。たしかに壬生浪士隊にはまともな服を着ている者は少ない。幹部連中でさえ、芹沢派はまだしも近藤一派の方はあまりにもお粗末な服装をしている。


 そもそも卯月だというのに未だに暑苦しいお綿入れの着物を着ている隊士が大勢いるのだ。


「たしかに一部の人間のせいで、我々がバカにされるのは侵害だね」


 新見が下品な笑い方をしながら、言った。


 土方の肩がピクリと動いた。抜くかな、と林は思ったがどうやらすんでのところで堪えたらしい。


 芹沢はしばらく考えると、決心がついたのか鉄扇を勢いよく広げた。


「よし、分かりましたわ! 隊士全員の夏物を用意しますわよ!」


「あらあら」


 近藤は頬に手を当てて、困ったように笑った。


 隊士全員と言えば、四、五十人分だ。そんな大量の着物を用意できるような金子は今の壬生浪士隊にはない。


 この頃の壬生浪士隊は会津藩のお預かりというだけで、正式に藩から給料を貰っているわけでもなかった。


 ではどうやって生計をたてていたかというと、押し借りと言って京都中の庄屋などから金を借りていたのだ。一応名目上は金を借りる代わりに困ったことがあればすぐに駆けつける、という事になっていた。ようするに用心棒代である。


 借り、とは言うが返す宛はないに等しい。町人も断れば何をされるかわかったものではないから、しぶしぶ金を貸しているのだ。こういう行為は京都の浪人の間で流行っていた。


 壬生浪士隊ではもっぱら、芹沢派の隊士たちがこれをやった。たいてい強面の平山が行けば話がついたので楽だった。


 しかしその押し借りも、


「いくら京の都といっても、ここまで何度も金策をすれば借りられる場所もなくなります」


「そうねえ。私たち方々から借りて回っているものねぇ」


 という訳だ。


「あー、もうどうしましょうか!」


 どうやら芹沢の中では隊士全員分の着物を揃えることは決定しているらしい。


「林さん、何か良い案はなくって!」


「良い案って言われましても……」


 ようするに金の無心ができる場所があれば良いのだろう。しかし林にはそんな場所皆目見当もつかない。


 しかし一つ、思い出した事があった。


 この前、山崎が何やら言っていたのだ。


 ――大阪にはな、ごっつ金持ちの富豪がおるんやで。わいの家の薬もぎょうさん買ってくれたわ。ま、いちいち値切ってくるケチな金持ちやったけどな。


「この前、山崎に聞いたんですけど。大阪に金持ちが居るとか」


「山崎?」


 芹沢は誰の事だか分かっていないようだ。


「ああ、山崎ですか」意外にも土方は山崎を知っていた。「中々優秀な男ですよ。真面目ですし、あれの言うことならば間違いはないでしょう」


 そして更に意外なことに、土方からはかなり買われていた。


 たしかに何だかんだ言って山崎は真面目な男だ。また勇敢でもある。先日、不逞浪士と切り合いになっても一歩も引かなかったそうだ。その時は土方も一緒だったので、かなり感心したらしい。


「ではじいや、すぐにその山崎なにがしさんを呼んできなさい」


「分かりました」


 平山が出てしばらくすると、山崎が八木邸の離れに向ってドタドタと走ってきた。先程まで林もいた前川邸から八木邸までは目と鼻の先である。


「はいはいはい、山崎烝。呼ばれて飛び出て即参上やで。どうもどうも、皆々様お揃いで」


 山崎はどうやら幹部連中に囲まれて緊張しているようだった。緊張すると早口にデタラメをまくしたてる性格である。芹沢はその小気味の良い言葉遣いを気に入ったようで、林に「貴方のご友人、面白いのね」と耳打ちしてきた。


「芹沢局長の部下でもあるんですよ」


「あら、そうだったわね」


 山崎は自分がなぜここに呼ばれたのか分かっていないようだ。


「ちょっと山崎さん」


「はいっ」


 芹沢に声をかけられて、山崎は直立不動の体勢をとった。なにもそんなに緊張しなくても良いのに、と林は思うがこれはいつも芹沢と一緒にいる林だからだ。


「なんでも大阪に、大富豪があるらしいですわね」


 大阪の大富豪と聞いて山崎はすぐにピンと来たようだ。


「ありまっせ。鴻池こうのいけ言いますねん」


「鴻池さんね。そんなにお金もちなら、わたくし達にも少しばかし融資して欲しいんものですわ」


 そう言うやいなや、芹沢はやおら立ち上がった。それに合わせて、新見、平山も立ち上がる。


 なんだなんだ、と林は訳が分からなかった。


「では、今からそこへ向かいましょう!」


 芹沢が鉄扇を掲げて高笑いをする。


「い、今からでっか?」と、山崎。


「さ、さすがに急では?」と土方も若干驚いているようだ。


「兵は神速を尊ぶと言いますわ! 善は急げ、思い立ったが吉日! さあさあ林さん、何をぼさっとしてますの! 今すぐ出発ですわよ!」


 どうやら酔っているわけではなく本気のようだ。芹沢にはこういう思い切りの良いところが多分にある。


 林も慌てて立ちあがり「お供します!」と付いていくことにした。


 当然の成り行きで山崎も案内のために同行することに。土方もやれやれ、といった様子でついてきた。自分がお目付け役のつもりのようだった。


 ついでにこの時、庭先で遊んでいた永倉新八という男を芹沢は目ざとく捕まえた。


「あら、永倉さん。お暇そうね」


「いえ、それが今忙しくて」


 忙しいというのが本当か嘘かは知らないが、顔には明らかに……面倒くさそうだな、と書いてあった。


「そう、でしたら休息がてら一緒に行きましょうか。人間たまには休むことも大切ですわよ」


「ああ、もう。芹沢さんはああ言えばこう言う」


 この永倉新八という男、近藤派として江戸から京都まで来たのだが、剣は近藤の教える天然理心流ではなく、芹沢と同じ神道無念流を使う。


 なんでも芹沢の剣の師匠が、永倉新八の師匠の弟子らしく、妙なところで繋がりがあり、二人とも浪士隊を結成する前から名前だけは知っていたそうだ。


 そのせいか、芹沢はいつもこの永倉に無茶な要求をする。


 永倉は時折ため息をついて「お互い大変だな」と林に言ってくる。


 林はこの永倉が好きだった。兄貴肌で、いつも良くしてくれるのだ。お互い大変だなと言われたら、いえいえ永倉さんの方が大変ですよ、とよく言う。べつにおべっかを使っているつもりではないが、林は芹沢と一緒にいるのが好きだから無茶振りも苦にならないのだ。


 もっとも、永倉も芹沢の事は憎んでいるわけではない。無茶を言っても嫌われない。そういうところは、芹沢の不思議な人徳だった。


 というわけで、突如の大阪下りである。


 人員は、



 芹沢鴨  ―― 壬生浪士隊筆頭局長みぶろうしたいひっとうきょくちょう

 新見錦  ―― 壬生浪士隊副局長みぶろうしたいふくきょくちょう

 土方歳三 ―― 同上

 平山五郎 ―― 壬生浪士隊副長助勤みぶろうしたいふくちょうじょきん

 永倉新八 ―― 同上

 山崎丞  ―― 平隊士ひらたいし

 林信太郎 ―― 同上



 の、七名だ。


 こうして見ると隊内でもきっての実力派とされる芹沢、平山、永倉の三名がいる。階級も上の者ばかりだ。芹沢は何も考えていないようで、存外よく考えているのかもしれない。


 平間のじいやは老体だから、と芹沢は彼を京都に置いた。


「では皆さん、胸を張って行きますわよ!」


 この言葉に土方が苦い顔をした。芹沢、近藤の両局長と比べると貧乳の土方ちゃんである。


 隊列も組まず、ぶらぶらと七人は歩き始めた。それを見て他の隊士たちは「珍しく芹沢局長が見回りに出られるぞ」と口々に言った。


 まさか芹沢がこんな散歩のような気軽さで大阪までくだりに行っているとは誰も思わなかったのだ。


 京都から大阪までは大阪街道を通る。これはかつて豊臣秀吉が伏見城を築城する時に四国の毛利一族に作らせた文禄堤が起源と言われている。毛利家といえば今は昔のこの時代では長州藩を治めている武家である。


 長州藩は倒幕の志を持っており、昨今ではもっぱら賊軍として弾圧されていた。壬生浪士隊の主な任務も、不逞浪士を捕らえることでこれはたいてい長州脱藩の者だった。


 そういう、ある意味では因縁の道を、壬生浪士隊は新撰組となった後も歩くことになる。鳥羽伏見の戦いだ。それはこれより四年後の事で、決定的な敗戦であった。


 しかしこの時の七人はまるっきり物見遊山のような気分で歩いている。


 芹沢、新見、平山などは酒を呑み々々。それにいつもはあまり飲まない永倉も加わり、ここぞとばかりに山崎も呑んだ。


「あまり呑みすぎなされるな」と、下戸の土方は叱咤したが、誰も聞く耳もたない。


 千鳥足の集団だ。


 しかしそれでも全員が腕に覚えのある浪人だ。酔ったままでも京から伏見宿を越えて、淀宿までも無視して枚方宿まで走破してしまった。――現代の単位で言えば30キロほどを歩いたことになる。


 ついた頃にはさすがに陽も傾いていた。


 宿の主人は七人の様子を見て、上等な部屋をあつらえた。これには芹沢もいたく気に入り、夜になればそこら辺から芸者を呼んだ。


 またどんちゃん騒ぎだ。


「どうするのよ、まったく……」


 土方が頭を抱えた。


「どうしたんですか?」


「こんなんじゃ、大阪にたどり着く前に金子がなくなるわよ」


 土方は困った時や慌てたときには女言葉になった。可愛いな、と林はちょっと思ってしまった。


 土方もすぐに気がついたのか、こほんと一つ咳払いして「あの五人には倹約に努めて貰わなければいけない」とぶつ切りに言い放った。


「そうですね」


 しかし楽しそうなのは良い事だった。


 その日は結局騒ぎに騒ぎ、あくる日に全員が起き上がれたのは午の刻も近いくらいの朝四ツだった。それで水をガブガブ飲み散らかして、昼ごはんを食べてからまた大阪街道を歩き出した。


「もう酒は飲まん……」と言い切ったのは永倉である。


「ほんまですわ」と山崎も同意した。


「あら、お二人ともだらしのない」と、芹沢は早くもまた呑んでいる。


「こいつは駄目だな、きゃはは」


 ニヤニヤと笑う新見。


「………………」


 無言で頭を抱えている平山。


 まったく、これが武士かと思えるほどひどい有様だった。


「酒のない、国に行きたい二日酔い、か」


 土方がぽつりと言った。


「三日目からは帰りたくなる、ってね。おーっほっほ。蜀仙人は良い事を言いますわ」


 土方は驚いて目を見張った。


「なんですか、今の?」と林は聞いた。


「狂歌ですわよ。わたくしにぴったりの」


「へえ、芹沢局長は物知りですね」と、林は感心した。


 土方が驚いたところもそこである。


「あら、林さん。わたくしけっこう色々知ってますのよ。例えばそうねえ、天地正大の歌でも諳んじてあげましょうか?」


 ――こいつはただの酔っ払いのバカではないぞ。


 油断ならない女だと、土方は思った。


 それもそのはず、芹沢は故郷の水戸では天狗党てんぐとうと呼ばれる過激な尊皇攘夷の集団に入っていた。水戸といえば尊皇攘夷のさきがけであり、急先鋒でもあった。

この尊王攘夷の心がけを学ぶための学問を水戸学とよぶ。芹沢はかなり深いところまで水戸学を収めた。


 芹沢の持つ鉄扇に書かれた「尽忠報国」という文字は水戸学を学んだ者なら誰もが知っている言葉だ。しかし言うは易く行うは難しという言葉でもある。その金言を堂々と掲げる芹沢は間違いなく大物だった。


 しかし惜しいのはやはりこの大酒飲みだ。


 これさえなければ芹沢はそれこそ水戸藩を率いていたかもしれないほどの大人物なのだ。


 が、しかしそれができないから彼女はこんな場所まで身をやつした。


 本当に、惜しい人材であった。



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