第2話 大阪下りで芹沢金二百両を得る1


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 この頃の壬生浪士隊が寝泊まりに借りていた屋敷は、壬生の郷士である八木源之丞やぎげんのじょうの八木邸と、そのすぐ近くにある前川邸であった。借りているといっても金を渡していたわけでもないから屋敷の主人たちはかなり迷惑していたであろう。しかし人が良いのか、ひとつも嫌な顔はせず受け入れてくれた。


 実は人が良いのではなく、素行の悪い壬生浪士たちを恐れていただけなのだが、それを感じさせないのが京人というものだ。


 八木邸には芹沢とその腹心たちが、前川邸には近藤と新しく増えた平隊士たちが住んだ。


 林は他の隊士たちと同じように前川邸で寝泊まりした。いくら芹沢の覚えが良くても、所詮は隊士の一人。しかし前川邸にはよく呼ばれ、酒を飲まされたりもした。


 林は酒が飲めないたちで、少しでも入ると顔が真っ赤になるのだが、それでまた芹沢は面白がって林に酒を飲ませたのだった。


 彼が入隊した日からそうであったから、他の隊士たちは林の事を色々と噂した。


 あれは芹沢の情夫である、という人や。


 いやいや、あれは古武術の達人で芹沢局長はそこが気に入っているのだ、という人もいた。


 なんにせよ林と芹沢の蜜月は周知の事実であった。




「いやあ、ほんまにあん時は助かったわ」


 山崎のひょうきんな声に、刀の手入れをしていた林が顔を上げた。


「もう良いよ、その話は」


 あれから半月も経ち、卯月に入ったと言うのに山崎は事あるごとにその話を繰り返した。


「いや、ほんまに感謝感激雨あられや。だってわい、実は剣なんて護身程度にしか使われんもんな」


 前川邸の縁側で二人は話をしている。山崎は日向ぼっこをして、寝転がっているがその声ははっきりとしている。眠るつもりはないのだろう。


「でもやっぱわいだけ卑怯かな? みんなに実力を見せとらんのって」


 壬生浪士隊は実力主義だ。強ければそれだけ重宝され、立場も上がる。元々が寄せ集めの草の根のような集団だから、強さこそがその人間の価値となってもなんら不思議ではない。


「剣よりも棒術の方が得意ってこと?」


「そそ」


 実は山崎烝の持つ香取神道流目録は、刀ではなく棒術のものである。香取神道流は古くからある流派で、剣術、槍術、棒術、柔術。そして変わったもので手裏剣や卜占ぼくせんなども教えた。山崎はこの全てを通り一遍こなせたが、一番得意なのは棒術だったのだ。


「ほんま、けったいな流派やわ」


 庭先では隊士たちがちゃんばらの稽古をしているが、どちらかと言えば遊びのようなものだった。


 まだ夏は遠く、春の名残がするような季節だ。桜の花はやがて散ってしまったが。


「なあ、自分はどこで剣を習ったんや?」


 自分、というのは大阪の方言で相手の事を言うらしい。


 林は最初意味が分からなかったが、この頃は慣れてきた。


「どこっていうか、山でね、師匠と修行してたんだ」


「師匠?」


「そう。二人っきりで」


「じゃあもしかして、自分、流派の跡取りなん?」


「まあそういう事になってたと思うけど――出奔しゅっぽんしたから」


 だから僕は夕雲紅天流を継げない。そう言って、林はこの話は打ち切りたいと刀を少し振った。山崎はそれを敏感に察した。


 それで、他愛もない今晩のおかずの話となった。


 ふと、気がつくと隣に林たちと同じ平隊士が座った。誰だろう、と目をやる。どこか陰険そうな顔つきをした、やけに目の小さい男だ。


「良い刀だね」


 男は涼しい顔をして言った。


 刀を褒める割に、林の刀には視線をくれようともしない。


「ああ、佐伯はん」と、山崎が起き上がった。「今帰りでっか?」


「ああ、一寸ちょっとそこらを警邏してきたよ。異常は無かった」


「どうも」と、林は頭を下げた。


 まだ若そうな男だ。おそらく、二十三、四くらいだろう。林より干支半分ほど上だろうか。


 この男、名を佐伯又三郎と言った。林はこの時が初対面だが、山崎はこれまで何度か話をしている。越中国、立山の出身らしい。


 剣の流派は北辰一刀流で腕は結構なもの。しかし筋は悪くないようだが、あまりに剣筋が正直すぎて、そこだけが玉に瑕だ。


 壬生浪士隊には林たちよりも先に入隊している。穏やかな性格で、周りに人間からも好かれていた。


「少し話を盗み聞きさせてもらったけど、山崎くんは棒術を使うんだね」


「実はそうなんですわ」


「まあ、卑怯ではないと思うよ。能ある鷹は爪を隠すという言葉もあるくらいだ。自分の特技を隠しているのも、それはそれで一つの手さ」


「僕もそう思うよ。僕なんて剣一筋だから。他の武芸も使えるってのは凄いことだと思う」


「あんま褒めんといてくれな。こんな特技、ここじゃ使われへん。やっぱ狭い道じゃあ、刀の出番や」


 確かに京の町は道と道の間が狭く、棒術は扱いにくい。山崎も今は帯刀している。


「そういえば林くんは芹沢局長とよく一緒にいるね」


「まあ、はい」


 林は刀の手入れを終えた。正座をしている左側に、刀を置く。すぐに抜ける位置に刀を置くのは失礼にあたるが、浪士隊では常在戦場が心がけとされる。


「どんな人なんだい?」


「どんな人と言われても……」


 見たままの人としか言えない。酒飲みで、大雑把で、剣の腕はピカイチ。自信に満ち溢れたその姿、立ち振舞は人を惹き付ける魅力がある。


「わいも気になるわ。というか、芹沢局長よりもその隣にいる先生たちが」


「ああ、たしかに。謎だね」と、佐伯も頷いた。


 芹沢の隣にいると言えば、副局長の新見錦にいみにしきと、副長助勤の平山五郎ひらやまごろう。あとは芹沢に「じいや」と呼ばれている平間ひらまという老人だ。確かにどれも朝の稽古などには顔を出さず、夜となれば祇園などに繰り出すため、平隊士からすればあまり顔を合わせることもなく馴染みが薄い。


「聞いた話だと、新見副長は芹沢局長と同じ水戸の出身だとか。でも平山先生はよく知らない。水戸ではない事だけは確かみたいだけど」


「あの人おっかないわ。なんせ片目やもんな」


「けれど隻眼でも達人なのだろう。ということは相当の腕前だろうね」


「だと思いますよ。立ちあったことはないからどれ程のものかは分からないけど」


 しかし林は気がついていた事がある。平山五郎という男には左目がない。だからこそ、彼はいつもそちら側に気を配っている。いざ立ちあうとなった時、目が無い方を隙きだと迂闊に襲いかかれば、痛い目を見るのはこちらだろう。


「新見副長はどうなんや?」と、山崎が聞いてきた。


「あの人は……」林は首を横に振る。「僕も分からない」


 新見というのは妙な男だった。


 水戸出身で芹沢とは昔からの知り合いというらしいが、どうもどちらも遠慮しあっている様子だ。だがどちらも酒好きで、朝晩構わず二人で呑んでいる。剣の腕はまったくの未知数だ。そもそも林は新見が刀を握った事すら見たことがない。


 根が軽薄な性格なのだろう、いつもニタニタと薄笑いを浮かべていた。何か揉め事があると飛んできて、止めるでもなくそのニヤケ面のまま眺めているのだ。「負けた方は切腹だぞ!」などとけしかけたりもする。あまり良い印象を持っていない隊士が多い。


 二人は林の話を興味深そうに聞いていた。


 林は自分の知っていることをいくつか話した。やがて気がついたのだが、山崎などはどうも芹沢の話を聞きたがっているようだった。というよりも、芹沢と林の話を。


 そういう関係ではないと釘を刺すも、山崎は「またまたー」と笑っている。


 いくらか年長の佐伯も、目を細めて話を聞きたがっているようだった。


 どうしたものかと困っていると、


「林さん、林さん」


 と、林を呼ぶ声が廊下の方から聞こえた。


「林さん、芹沢先生がお呼びですよ」


「あ、はい」


 呼びに来たのはじいやこと、平間重助だ。隊の中では珍しくそろばんが得意で勘定方なる唯一無二の役職を務めている。


 これで二人の詮索から逃れられると、林は急いで立ち上がった。


「ちぇ、人気者だねえ」と、山崎はつまらなさそうに言った。


「これでも飲めない酒を飲まされて大変なんだから」


 林はそう答えると、刀を腰に差した。


 その瞬間、佐伯が初めて林の刀をしっかりと見据えた。


「それにしても、良い刀だ」


 それは思わず漏れてしまった声のようで、言ったから佐伯自身も意地汚いと思ったのか、すぐに顔をそむけてしまった。


 そんなに良い刀なのだろうか、と林は疑問に思った。


 彼は刀の事は分からない。これだって、師匠のところから飛び出したときに勝手に拝借してきたものだ。壊したら後が怖いので慎重に使っている。


「行きましょうか」と、平間がのんびりとした声で林に言った。


「はあ」


 今度、誰かにこの刀の事を聞いてみたいと思った。誰が刀に明るいかも知らないが、こんなに何十人も浪人がいるのだ、一人くらいは詳しい者が居るだろうと思った。


 けれど林にとって、刀など斬れればそれで良いのだ。



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