第1話 花の都2


 誘われたその日の内にのこのこと出向くというのもなんだか間抜けな気がして、林は安宿で一夜をあかした。


 金は少しだけある。林は生まれてこの方酒が飲めない体質だ。ギャンブルも打たない。だからそう金がなくなることもなかった。道中だってたいていが野宿で、しかし風呂だけは好きなので行く先々の宿屋で風呂だけ借りた。


 変わり者だった。


 いや、というよりも常識知らずと言った方がいいだろう。今まで人里から離れた山奥で暮らしていたものだから旅にも慣れず、出たとこ勝負の精神で京まで来てしまった。


 常識はないが羞恥心はある。さすがに町の中で野宿はマズイと思い取り敢えず宿をとった。それは正解だっただろう。


 京の町は広いように見えて案外狭い。刀を差した男が一晩でも野宿しようものなら、どんな噂をたてられるかわかったものではない。それに、今の時勢そんな怪しい男がいればすぐに捕まってしまう。捕まれば最後、林がどれだけ言い訳しようと聞く耳を持ってはもらえないだろう。


 一見華やかに見える京都の町でも、裏ではなにかと不穏な空気で淀んでいるのだ。


 たとえば最近流行りだした言葉に、「天誅」というものがある。攘夷志士が好んで使う言葉である。元々の意味は神仏が悪人に与える誅伐――裁きのことであるが、ここのところ使われ方が少し俗物化している。攘夷派は自分たちと敵対するものたちを暗殺するときなどに、大義名分としてこの言葉を使用した。


 夜な夜な攘夷志士たちは天誅を実行するために跳梁跋扈している。そんなご時世だから後に新撰組が結成された。


 というわけで、今の京都で野宿などしようものならどのような事を言われるかわかったものではない。ましてや林は立派な太刀を差しているのだ。疑ってくれと言っているようなものだ。


 知らず知らずに危険を回避するのも、持って生まれた天運の内だ。林は幸運な男だった。今までなんどもあわやというところで生きながらえてきた。


 彼はどこかで自分は死なないとすら思っていた。


 昼四つの時間に宿を出て、壬生村へと向かう。


 宿の店主は優しい人で、林に丁寧に道を教えてくれた。丁寧すぎて、田舎者の林をそれとなくバカにしたものだったが、純粋な彼はそんな事まったく気がつかなかった。


 たどり着いた壬生村は、京都の町でもどちらかと言えばうらびれた場所だった。


 洛中までは遠くないはずなのだが、どうしてここはこんなにも寂れているのだろうか……。


 さあ、駐屯地はどこだろうと宛もなく歩いてみるが、村といっても案外広いものだ。林は目の前から歩いてきた男を捕まえて道を聞くことにした。


「すこし。道をお尋ねしても良いですか?」


 侍風の男だった。風、というのは林と同じで、二本差しではなく腰に一本しか刀を差していないからだ。浪人の類だろう。月代さかやきを綺麗に剃っていて身なりは中々よろしい。


「なんや?」


 と、浪人は癖のある大阪訛で返事をした。


「ここらへんに壬生浪士組の駐屯所があると聞いたんですが」


 男がパッと顔をほころばせた。


「なんや、あんたも浪士隊に入りたいんか!」


 裏表なく笑う男だ。白い歯が印象的だ。林は一瞬で警戒を解いた。そういう人懐っこさが男にはある。


「わいもなんや」


「ええ、貴方も?」


 この偶然には林も驚いた。


 男はニコニコと目を細めて笑う。侍らしくはない。町人が侍のふりをしているだけだろう。


「わいは山崎烝やまざきすすむ。大阪浪人や。わいも今から壬生寺みぶでらまで行って入隊させてくれってお願いしようと思っとったんや」


「壬生寺……?」


「なんや、自分そんなこともよう知らんとここまで来たんか」


 林の顔がかっと赤くなった。田舎者とバカにされたような気がした。だが悪気はないのだろう、それは声色で分かる。


「まあ、そうやないと道なんて聞かへんな。よっしゃ、袖振り合うも多生の縁や。一緒に行こうや。ほんまの事言うとな、わいも一人でビビッとったんや。知り合いと一緒なら心強いわ」


「知り合いって」


 いま会ったばかりの素性も知らない男を、山崎は知り合いと言うのだ。おかしな男だった。


「んで自分、名前はなんていうんや?」


「林」と、彼は山崎の勢いに飲まれながら答えた。


「林ね。じゃあ行こか。にして自分バカやな、壬生寺は自分が今歩いてきた方向にあるんやで」


「そうなんですか」


「ああ、そんな遠慮せんでもええで。ここだけの話――」山崎は声をひそめて、林の耳元に口を寄せた。「わい、こんな格好してるけど、ほんまは薬の原料売りなんや」


 やっぱりね、と林は頷いた。


 この時代、薬の原料売りの事を薬種問屋と言った。


 まだこの物語には出ていないが、新撰組で鬼の副長と呼ばれた土方歳三ひじかたとしぞうの生家は薬売りだった。石田散薬という今では効能が怪しいと思われるような薬を土方自身も売り歩いていた。


 そういった家伝の薬を売り歩く薬売りというのは案外多く、薬種問屋もけっこう繁盛したものだ。


 山崎はそれなりに裕福な家に産まれた。そんな彼がどうして京都までやってきて、壬生浪士組に入ろうと思ったのか――。


「僕も同じようなもんだよ。これっぽっちも武士じゃあない」


「そうやろな」


 二人はどちらからともなく笑った。秘密を分かち合ったせいか、なんだか十年来の友人のような気さえしてきた。


「まあ、そんなわいらでも武士ってことにしてくれるらしいからな、ほんま会津さんには頭が下がりますわ」


「武士にしてくれる?」


「なんや、それすらも知らんのか。壬生浪士組に入りゃあ、全員が武士になれるって。そこら中の噂やで。なんでも壬生浪士組の裏には会津藩がおってな、浪士組は肝いりの戦闘集団やって話や」


「そうなんだ……」


 戦闘集団と聞いて昨日の芹沢の剣を思い出す。 


 局長という順列は聞いたことのないものだったが、その頭にわざわざ筆頭と付くくらいだ、かなり偉い位なのだろう。やはりあれくらの大人物になれば戦闘集団を率いているのだ。


 林の中に、昨日抱いたときめきが蘇ってきた。


 心臓がとくん、とくんといつもより早くなる。不思議だった。


「そしたら林はなんで壬生浪士組に入ろうとしてるんや?」


「誘われたから……」


「誘われた? ふうん」


 興味があるのかないのか、山崎はてこてこと歩いて行く。


 やがて壬生寺に到着した。


 たのもう、とでも大声を出して人を呼ばなければいけないのかと覚悟していたが、そうではなかった。寺の門前に脚の長い机が置かれており、その奥には二人の男が立っている。


「まるで葬式の受付所やなあ」


 山崎がぽつりと言った。


 林も同意だった。ともすれば香典でもせがまれそうなくらいだ。身なり、また柄も悪い浪人たちが何人も受付の前に並んでいる。林と山崎もその列に並んだ。二人の男はまるで流れ作業のように浪人たちの名前を訪ねては帳簿に書いていく。


 ――なあんだ、俺だけじゃなかったのか。


 正直なところ、林はそう思った。


 きっと芹沢は有望そうな若いのには片っ端から声をかけていたのだろう。見ればまわりにいるのはそれなりに腕がたちそうだ。隣にいる山崎だって、色黒で身長が高く胸筋が発達している。いかにも腕に自信あり、という感じだ。


 しかし林も負けていられない。できるだけ胸を張って列に並ぶ。


「では、次の方」


 受付にいた男の一人。柔和な表情を浮かべた老人が言った。


「大阪浪人、山崎烝や」


「流派は?」


 と聞いたのはもう一人の男。


 いかにも利発そうな若い男だ。しかしどこか鼻持ちならない。それは山崎も感じたのか、ぶっきらぼうに「神道流しんとうりゅう、目録や」と、答えた。


 利発そうな男は帳簿に「山崎ススム、神道流目録」と書いた。


「では、そちらの方は?」


「林信太郎です。流派は――夕雲紅天流ゆうぐもこうてんりゅうです」


「ゆうぐもこうてんりゅう?」と、柔和な男が聞き返した。


「知らない名ですね」と、利発そうな男。「それで、伝位は?」


「ありません」と、林は答えた。


 ふん、と利発そうな男が鼻を鳴らす。それを横にいた老人が「こら、藤堂とうどうくん」とたしなめた。


 藤堂と呼ばれた利発そうな男は一瞬ふてくされたような表情をしたが「それで出身は?」と次の質問をしてきた。


 それで林は答えに詰まった。武蔵の国、というのはあくまで彼が師匠と修行をしていた山があった場所であり、実際の彼の出身地ではない。


 たった二人っきりで剣を振るい続けてきたあのお山。伝位など考えたこともなかった。ただ純粋に、強く、剛健に、鋭く鍛えられた。


 彼は十一代目夕雲紅天の名も継がないまま、そこを飛び出してきたのだ。


 もう帰る場所などないのだ……。


 何も言わない林に、二人は訝しげな目を向けた。


「ああ、こいつもわいと同じ大阪浪人や」


 山崎も林の様子がおかしいと気がついたのか、横から助け舟を出す。


「なあ、親友。そうやろ?」


「あ、ああ」


 帳簿につけられた文字――「林信太郎、夕雲紅天流」の文字。


 林、という名ももちろん偽名だ。まさか夕雲という性を名乗るわけにはいかなかった。


 中に行け、と言われて林と山崎は壬生寺へと入る。


「ありがとう」


 並んで歩きながら林は山崎を少し見上げた。


「あんなもん自由にふかしときゃあええんや。どうせ皆適当こいとんのやから」


「そうだね」


 壬生寺の庭には新入隊員だろう、何十人もの浪人が待ちぼうけを食らっていた。


 そのせいでみんな気が立っているようだ。今にも喧嘩が始まりそうなくらいのものである。


「あんまり治安はよくなさそうだね」と、林は思ったままの事を言った。


「せやな」


 ざわつく浪士達。そう、今この時はまだそれぞれが浪士なのだ。


 彼らには指標がいない。そして今、その指標が寺の中から現れた。


「全員、静かにしろ!」


 凛とした声。張り詰めた弓の弦を思わせるよく通る声だった。


 青みがかった黒髪と、きつそうなつり上がった目。デコは広く、まさしく真面目生一本と言った様子の女である。彼女こそ、後の新撰組副長、土方歳三だ。


「こちらの方が壬生浪士組局長、近藤勇こんどういさみ先生だ!」


 土方の後ろから出てきたのは、糸目をにっこりと曲げた優しそうな女性だ。よく目立つ桃色の髪色をしている。しかし男であれば真っ先に目がいくのはその豊満な胸部だろう。


 林の隣にいる山崎が、ゴクリと生唾を飲み込んだ。


「上玉やな」


「う、うん」


 確かにべらぼうの別嬪だ。しかし、しかしである。林の目は無意識に芹沢の姿を探していた。


「みなさん、こんにちは。今日は壬生浪士隊の入隊試験にお集まりいただき、ありがとうございます」


 こちらは土方とは違い、甘ったるい砂糖菓子のような優しげな声だ。猫なで声とも言いかえても良い。


「みなさんには今から簡単に実力を見せていただきたいと思います」


 入隊希望者達がいきりたった。どいつもこいつも喧嘩っ早い連中なのだ。自分がどれくらいできるかを見せびらかしたくてウズウズしているのだろう。


「名前を呼ばれたものから順々に、二人で手合わせしてもらう! なお、これはあくまでそれぞれの実力を見るものであり、立ち会いの勝ち負けに関係なく諸君の壬生浪士隊への入隊を許す!」


「だからみなさん、のびのびいつもの実力を出してくださいね」


 片やツンツンの冗談の通じなさそうな副長。


 片やほわっとしたどこか間の抜けた用なお姉さんキャラの局長。


 この二人はまるっきり正反対に見えるが、同時に二人の息はあっているようにも思えた。それぞれの性格が合わないことは、必ずしも相性が悪いという事ではない。


 入り口にいた藤堂という男が、土方に入隊希望者の名前が書かれた帳簿を手渡す。土方はそれを開いて最初に書いてある名前を読み上げた。


 呼ばれたものから前に出て木刀を受け取る。


「なんや、模擬線で木刀を使うんか」


 山崎が臆したように呟いた。


 立ちあいは一瞬で終わるものもあれば、拮抗した見ごたえのあるものもあった。中にはてんで剣を使えない者もいたが、そういう人間だとしても入隊は許可されるようだ。


 やがて、林と山崎の名前が呼ばれた。


「お手柔らかに頼むで」


「こちらこそ」


 順番に呼ばれるものだから、揃ってここに来た二人が剣を向け合うことになった。


「山崎烝、香取神道流、いくで!」


「林信太郎、夕雲紅天流、推して参る!」


 誰が初めたか分からないが、見ている局長以下重役に自らの覚えを良くしようと、名前と流派を叫んでから木刀を構えた。それを後の者たちも真似をした。


 山崎はどっしりと正眼に木刀を構えた。腰が少し低い。神道流の構えだ。


 それに対して林も同じように受けた。


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