第1話 花の都1

 武蔵の国から中仙道を何日もかけて歩き、七日目にしてとうとう京の町が見えた。


 一人旅の気ままさに任せてかなりの早駆けになったが、林はまったく疲れていなかった。


 健脚には少し自信がある。なにせ師匠のところで毎日野山を駆け回っていたのだから。


 三条口より入京した林は、おおよそのおのぼりさんがそうするように、取り敢えずは京都の中心である御所を目指した。何も中に入ろうというわけではない。ただ天皇のおわす禁裏という場所がどういうものなのか、一度この目で見ておきたかったのである。


 山出しの林は華やかな都ではそこにいるだけで目立ってしまう。なにせ視線が定まらないのだ。あちらをキョロキョロ、こちらをキョロキョロ。映るもの全てが目新しい。


 それに腰に差された刀が一本、いかにも浪人でございますという感じだ。


 しかし昨今、京都には大勢の浪人がいる。どこかの藩の名前をうそぶくならまだしも、堂々と○○藩脱藩、などとのたまう者までいる。それぞれがそれぞれの信念を胸に、この京都で一旗揚げようと息巻いているのだ。


 林もある意味ではその一人である。


 彼はまだ若く、正義というものに淡い憧れを抱いていた。この時代の正義とはすなわち武士の事であり、つまり彼は武士になりたくて上洛したのだ。


 しかし生まれ持った士農工商の身分はどう足掻いても覆せるものではない。今の彼は、ただ一介の剣客にすぎなかった。


「おおう? なんだろう」


 何やら道の真ん中で人だかりができている。


 京の道はよく知られる通り、碁盤の目のように整備されており主要な道となれば幅も広い。行き交う人も多く、まるで縁日のようだ。だから林も最初はその人だかりを見て何か軽業師が芸でもやっているのかと思った。


 どれどれ、と人だかりに近づいてみる。


 だが、どうも雰囲気が剣呑だ。というのも林と同じような浪人面をした男三人が、華奢な女性一人を寄ってたかって糾弾していたのだ。


「ふざけるな! 武士にぶつかっておいて謝りの言葉もなしか! 切り捨てられても文句は言うまいな!」


「どうか、どうかお命だけは……」


 どうやら女のほうが不注意で浪人にぶつかってしまったようだ。確かに見ようによっては鈍臭そうな女である。表情はどこか茫漠としていて――こういうのを白痴美というのだろう。精巧な人形のように美しいことだけは確かだ。


「ええい、我慢ならん! それが謝る態度か!」


 ここのところ、京の町はあまり治安がよろしくない。将軍が江戸から京都に上洛するだのしないだの、何かとごたごたしており、そのため不逞浪士たちも大勢集まってきている。目の前の三人も、おそらくその類だろう。


 本気で切り捨てをするつもりはないはずだ。言ってしまえば暇つぶしに遊んでいるだけ。ただの弱い者いじめだ。


 林にはそう感じられた。だからこそ、ふつふつと怒りが湧いてきた。


「わざとじゃないんです、本当にわざとじゃないんです」


 ほう、と林は思った。女の口調にはどことなく江戸の訛があるように思えた。上手く言えないのだが、少し巻き舌気味に発音するあの啖呵を切るような発音である。


「そこになおれ! 地に頭をつけろ!」


 女は震えながら、膝を降り土下座をしようとした。


 そこに林はすかさず人混みから飛び出て、女を抱き起こした。


「なんだお主!」と浪人の一人。


「まあまあ、それくらいにしてやって」


 林はニコニコと笑いながら、三人と女性の間に割って入る。


「こんな綺麗な着物を着てるお嬢さんですから、いかに花の都のものであろうと土で汚すにはもったいないでしょう」


「ふざけたやつめ、名を名乗れ!」


「僕かい? 僕は林――」と、彼は名乗った。が、これは偽名だ。というよりもこの時代、武士以外の階級の人間には殆んど名字などない。「信太郎だ」


 名乗りながら、林は刀の鯉口を切った。


 林の顔から笑顔が消えた。そして目が猛禽類のように鋭く光った。


 林の雰囲気に気圧された浪人たちは一歩下がった。


 しかしなめられてはいけないと思ったのか、真ん中にいた男がえいやと気合の入った声を上げて刀を抜いた。それを上段に構える。


 それに習うように他の二人も刀を抜いた。


 どいつも大した腕ではなさそうだ。しかし三対一となるとちと不利である。


 どうしたものか、このまま振り抜きに一人、返す刀で一人切ったとしても残り一人が余る。そこで捨て身覚悟の特攻をされようものなら、よくて相打ち。


 林の腰が少し落ちる。左手を刀の鞘に添え、居合の構えだ。


 緊張。


 引き伸ばされたような時間が対峙する者たちの間に流れる。林は出方を伺っている。浪人共は誰が先に行くかと互いが互いを牽制しあっている。


 あきらかに最初の一人は死ぬ覚悟で攻めなければいけない。それに臆しているのだ。


 埒が明かない。しかし焦れば待つのは死である。林はまんじりとも動かす、その時を待った。


 だが、機会は意外な形で訪れた。



――「あなた、なかなか良いですわ!」



 耳をつんざくような大声に人垣が割れる。


 そして躍り出てきたのは金髪碧眼の女だった。まさか異人かと思ったが、どうもそうではなさそうだ。腰には二本差し。反対側には徳利がぶら下がっており、服装は洒落た紋付き袴である。


「尽忠報国の士、芹沢鴨! 多勢に無勢なれど一歩もひかぬそのお姿にいたく感銘を受け、洞察するに義はそこもとにありとし助太刀いたしますわ!」


 芹沢は刀を振り上げるとそれを大上段に構え、一気呵成に打ち下ろした。真ん中にいた男は慌てて刀を横にしてそれを受け止めようするが、芹沢の膂力りょりょくは異常なものがあった。


 ぶち当たった刀ごと真っ二つにして、浪人の頭が割れた。


 それを見て林は動く。


 刀を抜き放ち向って左側にいた浪人の手首の腱を斬る。これでもう刀は握れない。刀を抜いた勢いのまま、コマのようにくるりと廻り顎に回し蹴りを食らわす。男は意識を飛ばし、糸の切れた人形のようにその場に倒れた。


 あと一人。と思い視線をやると、残った男は芹沢の事を後ろから斬りかかろうとしていた。


「あぶないっ!」


 と、林は叫び芹沢の着物の裾を手繰り寄せる。芹沢はまるで人形のように林に体重を預けながら「あら?」と素っ頓狂な声を出す。


 男の刀が、元々芹沢がいた場所を空振った。


 林は芹沢を腕の中に抱き寄せるようにしながら、距離をとる。


 芹沢はけらけらと笑った。


「貴方、なかなか気安いのね」


「冗談じゃない」と、林は真っ赤になって答えた。


 芹沢を離し、刀を構える。林の刀は二尺三寸五分。当節のはやりから見ればやや短い。その短い刀を天に突きつけるように上段に構えた。


 相手が斬りかかってくる。その手が落ちる、その瞬間には先の先をついて両手が離れ離れになっていた。あまりの速さに、相手は自分の手が斬られたことに気がついていないようだ。


 林は間合いをはずし、残心をのこす。


 だがその隙きに、芹沢が男をたたっ斬った。


 驚いた、まさか殺すとは思わなかった。


 人を斬った芹沢は、落ち込むでもなく満足するでもなく、ただ徳利を傾けて酒を呑もうとした。だがもう入っていなかったのか、徳利からは水の一滴もこぼれ落ちてこなかった。


 さらに驚く。酒を飲んでもあの剣さばきである。林は驚嘆した。こんな剣を扱えるものは、師匠の他に知らなかった。


「あ、あの……ありがとうございます」


 林と芹沢に、女が感謝の言葉を示した。


「さっさとお行きなさい。ここにいては貴女まで面倒ですわよ。ほら、町人のみなさんも! 見世物じゃなくってよ! なにか文句があるならば壬生浪士隊筆頭局長みぶろうしたいひっとうきょくちょう、芹沢鴨にお言いなさい!」


 町人は蜘蛛の子を散らすように去っていく。


 が、林はそこを動かなかった。


「あなた、胆力もさることながら腕も良いのですね」


 芹沢は初めて林に笑顔を向けた。


 その瞬間、林の胸は今まで経験したことのない高鳴りを覚えた。綺麗だ。大きな瞳が純粋な眼差しでこちらを見ている。唇は今まさに紅を付けたように燃えたぎっている赤だ。その微笑みはまるで天から降り注ぐ陽の光のように林の心を満たした。


 芹沢は髪をかきあげて、誘惑するように林に流し目を送った。いや、厳密には林が誘惑されただけだ。


「助けてくれてありがとう。あなた、気に入りましたわ。わたくしは芹沢鴨。カモちゃんとお呼びになってくださいませ。あなたの名前は?」


「林、信太郎です。むしろこちらこそ助けてもらいました」


「林さん、ね。覚えておきましょう。見たところ浪人のようですが、どこの出身で?」


「いちおう、武蔵の国です。けど武士じゃありません、出は農民です」


 嘘は言っていない。幼いころに両親が死んでから、ずっと師匠と山の中で修行をしていて農業はおろかクワを握ったことすらないが、身分は農民であるはずだ。


 バカにされるかな、と林は思った。


 良くも悪くもそういう時代である。


 しかし芹沢は快活に笑った。


「そうですか。では、まさか後ろ盾も宛もなく京へ?」


 そうです、と林は頷いた。


「ますますよろしい! その奔放さ、嫌いじゃありませんわ。もしよろしければわたくしの元に来なさいな。壬生に浪士隊の駐屯地がありますから。あなたならいつでも待っていますわ」


 しばらくすると恐ろしい形相をした片目の男と、白髪交じりの初老の男がやってきて死体を担いだ。「無礼討ちですわ」と、芹沢は歌うように言いながら二人の前を大股で歩いて行く。


 そして見えなくなる前に一度振り返り、片目を閉じたまま林にひらひらと手を振った。


 林の心臓はドキドキしっぱなしだった。


 命のやり取りをしたからだろうか、きっと違う。しかしそれが何なのか、彼には分からなかった。今まで剣一筋で生きてきた剣客が、初めて恋をしたのであった。


 それは文久ぶんきゅう3年(西暦で言えば1863年)の、5月の出来事であった。


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