第二話 平助、降参する
キーンコーンカーンコーン。
昼のチャイムが鳴ると同時に、僕は机に思いっ切りうつ伏せた。とにかく前を向く行為にも限界があった。腹は減っているが、その前に気力を回復させたい。
「平助さーん。飯にしようぜ、飯ー」
雅紀の呼び声が耳を叩く。佐久場さんの声は遠い。女子か誰かに、誘われたのだろうか。
「平助ー?」
雅紀の声は更に続く。うるさい。今日はお前だろうと無視してやる。こちらを睨んだ報いだ。ざまあみろ。
「仕方ない。俺だけ購買に行こう」
とうとう雅紀は諦め、僕から離れた。その後ついウトウトしてしまったのだけど、気付けば焼きそばパンがそっと置かれていた。しょうがない、今日のところはこのくらいにしてやるか。もそもそと食べながら、僕は判決を下した。
そうして耐えに耐え続け、始業からおよそ七時間後。終業チャイムの音と共に、僕は一目散に教室から逃げ出した。昼休みの後、二時間の授業。ひたすら張り詰め続けた僕の精神は、とっくに限界だった。雅紀の声も、クラスメイトの視線も全部無視して。走りに走って、校外を目指す。
どうしてこうなった。僕は善良なただの高校生だったはず。確かにちょっと内気で中性的だけど、雅紀のような男らしいイケメンリア充ではない。むしろモブだと思っていた。なのに、なぜ。いや、原因の詮索は後だ。とにかく僕は。今は自宅に戻りたい。早く帰って落ち着きたい。
「松本……さん」
かすかに聞こえる声。佐久場さんの声だ。いや、気のせいだ。
「松本さん」
また声。今度ははっきり聞こえた。なぜ的確に追ってくる。人気の少ない方の階段を、一階目指して駆け下りてるのに。
「待って下さい、松本さん!」
甲高い声。しかも大きい。僕は思わず、耳を塞いでしまった。もう逃げられない。現実を見なければ。
ゆっくりと振り向けば、そこには彼女がいた。
運動に慣れていないのか、膝に手を置き、息急き切って。あ、ヤバい。おっぱいが重力と腕で凄いことになってる。股間が危ない! だが、それを気にしている余裕もない!
「なぜ、逃げるんですか?」
問い詰める声。君のせいだ。君が僕の童貞を奪った挙句、学校にまでやって来たからだ。僕を迷わせるからだ。
だけど、正面からは言えない。人違いだったら、僕は赤っ恥をかく。どうすればいい。
しかし。そんな迷いは一蹴される。
「私が。貴方の
いつのまにか彼女は近付いていて。僕を惑わすクリーンヒットな声で、囁いてくれたからだ。昨夜の、真実を。
「えっ」
それは僕の混乱を深める行為。靄は晴らしてくれても、解決には繋がらない。だから、僕はなにも言えず。
「立ち話もなんですし、一度外に出ましょうか。さあ、私とともに」
右手を掴まれる。ダメだ。そんなこと、されたら。
「外に出たら手を離しますよ。堂々として下さい。余計に変な目で見られます」
そのまま僕を引っ張るようにして、校門へと向かう。一体なんなんだ。僕に対して、なにがしたいんだ。表情から、探ろうとする。しかし佐久場さんは。昇降口まで、ずっと前を向いたままだった。
結局、僕は逃げられなかった。いや、逃げなかったのだろうか? ラッシュ時よりは人の減った下駄箱で、そっと手を離されたのに。
そのまま佐久場さんは、どこへ行くとも言わずに歩き出したのに。僕は付かず離れずを保ち続けて。右へ、左へ。何回も曲がって。
その場所は、雑居ビルの並ぶ、やや細い路地にあった。そこまで来てようやく、彼女の足が停まった。そしてこちらを向いて。
「ここまで付いてきて下さり、ありがとうございます」
深いお辞儀。ポニーテールも垂れる。感謝の気持ちが、こちらにも伝わってくる。
ようやく僕は理解した。結局、自分から彼女に付いていったのだ。だって、逃げるチャンスはあったのだから。
「ここの地下になります」
通りに面した下りの階段。そこを指差して、佐久場さんは言った。人一人通れるぐらいの、細く、急な階段だった。
「参りましょう」
それだけ言うと、彼女はスタスタと階段を降りていく。まるで、何度も来ているかのような動きだった。
「あ、はい」
僕も、遅れを取らないように付いていった。長いポニーテールを追いかけて、慎重に階段を下っていく。
思ったよりも階段は長かった。やや薄暗い中を、濡羽色の髪だけを目印に下りていき。三十段程下ってようやく行き止まりが見えた。
色が目立つのか、薄暗いはずなのにはっきりと見える木造りのドア。そこにかけられた、「喫茶店S・C」という看板。直前で佐久場さんは立ち止まり、僕は二段上で待機した。
佐久場さんがゆっくりとドアを引くと、カランカランと鳴り響く音。僕の心音を、映し出したかのようで。
「どうぞ」
佐久場さんに促されて、僕は先に入店する。その中は、まるで異世界だった。
そりゃ僕だって。ヨネダ珈琲やムーンアヘッドコーヒーとか、そういう有名な喫茶店に入ったことはある。だけどこのS・Cは。また違う空気だった。
豆から挽いているのだろうか、コーヒーの匂いが店内を満たしていて。整った調度品やクラシックな音楽が、シックな雰囲気を醸し出す。そしてなにより。
「いらっしゃいませ」
白のカフェコートに身を包んだ髭面の、しかし一切不潔さは感じさせないマスター。その丁寧な一礼が、僕を驚かせた。
「マスター。ご無沙汰してました」
僕の後ろからかかる声。そうだ、僕は佐久場さんに入店を促されたんだった。左へと身を引き、彼女に道を開ける。
「やあ。久しぶり」
佐久場さんを見たマスターの声に、一瞬の間を感じたのは気のせいだろうか。だが、表情に変化はない。髭の中に、感情を隠しているのだろうか。
「奥の席、空いてますか?」
佐久場さんがこう問えば、マスターは素早く僕達を奥の席へと導いていく。その接客に、淀みはない。
「こちらへどうぞ」
出入り口から一番遠い対面席に、僕達は通された。店内はさほど広くない。カウンターはバックヤードではなく、客と対面する形で設置されている。そうか、純喫茶というやつか。
「お飲み物は、なににいたします?」
「ひゃ、ひゃいっ!」
キョロキョロと店内を見回していた僕を、現実に引き戻す佐久場さんの声。思わず声が上ずってしまう。このクリーンヒット、今日だけで三度目だ。どれだけ僕は、彼女の声に弱いのか。そんなことを思いつつ、メニューを読む。しかし。
「すみません。コーヒーの種類がよく分かりません」
一瞬で僕は降参した。カッコいいところを見せる。そういう思考すらできなかった。メニューにはコーヒーとかカフェオレとかではなく、キリマンジャロとかブルーマウンテンとか書かれていた。正直に言おう。サッパリわからない。
「あら。正直なんですね」
くすくすと、小さく笑う佐久場さん。でも、バカにする感じではなくて。彼女はそっと手を上げ、マスターを呼ぶ。
「今日のおすすめを二つ。よろしくお願いします」
手際の良い注文に、僕は舌を巻いた。そうか。そんな手段があったのか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます