起:ボーイ・ミーツ・サキュバス
第一章 例えばキミが来ただけで
第一話 平助、転入生に出会う
三十分後。僕は通学路の上にいた。床ドンに蹴飛ばされた後に時計を見たら、時間の余裕が消えていて。急いで手紙と封筒を隠し、制服に着替えて飛び出したのだ。高校へ繋がる一本道。そこかしこで生徒がおしゃべりに興じている。
「おーい、松本さん。人の話聞いてます?」
「悪い、聞いてなかった」
そんな僕に掛かる、低い声。小学校からの長い友人、
「なんだよ、ボケッとしやがって」
雅紀は口をとがらせ、恨めしそうに僕を睨む。うん、申し訳ない。ガタイもいいから、実のところ、ちょっとだけ怖い。
「ま、いいや。もう一度言うぞ? 『紅い瞳の童貞泥棒』の噂、聞いたことあるか?」
しかし睨んでいたのはほんの数秒。気を取り直した雅紀は、再び会話を切り出した。
「多少は」
僕は気だるげに返す。普段ならこうでもないが、今日は少々疲れている。あんな出来事の後なら、仕方ないよね。
「なら話は早い。紅い瞳をした女が、夜中にあちこちを薄着で出歩いててな、その姿に見惚れると……」
雅紀が身振り手振りを添えて語りかけ、僕はうなずく。話に食いついたと考えたのか、雅紀は一度言葉を切った。僕の肩を掴み、脇に抱え込む形にする。身長差のせいで、僕が見上げる形になって。
「紅い瞳に絡め取られ、童貞を喰われるんだ」
そのまま耳元で、最後の部分を告げられる。
「え」
僕は硬直した。雅紀が離れても、体勢を戻せない。嫌な汗が、頬を流れていく。
「おい。どうした?」
雅紀の声が、遠くに聞こえる。
いや、待て。僕は信じないぞ。きっとアレは夢だ。帰ったら金も手紙も消えていて。これからも平凡な毎日を過ごすんだ。
まさか僕の
「おい? おーい?」
完全にフリーズした僕。雅紀の呼びかける声だけが、わずかに聞こえていた。
その後のことはほとんど覚えていない。気がつけば始業のチャイムが鳴り、僕はいつの間にか自分の席に座っていた。雅紀も、自分の席で大人しくしている。
どうやって学校までたどり着いたのだろう。もしかしたら、雅紀に迷惑をかけてしまったのかもしれない。今度、埋め合わせしないと。
それにしても童貞泥棒の件だ。雅紀の言葉が本当だとしたら。僕は、都市伝説に出会ったのかもしれない。それも、被害者として。
ガラッ。
そこまで考えた所で、僕の思考は打ち切られた。バーコード頭の担任が、教室に現れたからである。
「よーし、おしゃべりやめろー。前を向けー。今日は転校生が居るぞー」
抑揚のない一言。しかし、教室はざわつく。無理もない。新学期も近いこの時期に、転校生である。そもそも高校では、転校自体が珍しいのにだ。たちまち私語が始まった。
「おーい、静かにしろー」
一応は止める担任だったが、ひと声掛けただけですぐに首を振る。既に、最初から諦めているのだろう。
「……入ってきなさい」
担任による、静かな指示。クラス全員の視線が、引き戸の向こうへと集中した。
「失礼します」
穏やかな声。穏やかなドアの開け方。あまりにきれいな声に、僕の心臓がゾクリと跳ねた。おかしい。僕は声フェチではない。のに。
静かに開いたドアから、白く、細い指がのぞく。続いて紺色のセーラー。顔の前に、おっきな胸が目に入り……ん? いや、おっぱいだけじゃあ分からないし。まさかねぇ。
しかし。続いて顔がのぞき、僕の思いは打ち砕かれていく。特に惹かれたのは、湖のように青い瞳。その青い瞳を、そっくり紅色に変えると。いやいや。そんなはずは。
だが、トドメは容赦なく僕に刺さる。最後に見えた、長い黒髪のポニーテール。それを、解いてみた姿を。僕は覚えている。
「!?」
思わず立ち上がる。転校生へ向けられていたクラスの視線が、一瞬でこっちへと変わった。
「おーい、どうした松本。知り合いか?」
担任からの、抑揚のないツッコミ。僕は思わず周囲を見渡して。
「あ……。すみません。なんでもない、です……」
顔を赤くし、小さくなって座り込む。恥ずかしい。確かに見知った(?)顔かもしれないけど、言える訳がない。
「よし。では転入生、自己紹介をしてくれ」
「はい。私は、
カツカツと書かれていく文字。その書体にも、覚えがあった。チョークとペンの違いこそあれ、非常に似ていた。先程大恥をかいたので、目立った動きはできないけれど。非常にもどかしい。
「佐久場さーん、彼氏居るのー?」
「家どこ?遊び行きてえ!」
名前を書き終わるなり、下世話な質問が彼女へと飛ぶ。その気軽さは、ある意味羨ましいけど。
「あー、オマエら落ち着け。もうすぐ授業だ。えーと、佐久場の席は」
担任は目で教室を目渡す。そして、思い付いたように僕の方を見た。
「よし、松本。オマエの隣にしよう。佐久場。あそこでいいか?後一月でクラス替えだし、それまでの話だから」
いや、ちょっと待ってよ先生。ラノベや漫画じゃあるまいし。うわっ、男子がこっち睨んでる。雅紀、お前もか。彼女持ちのくせに。こっち庇えよ。
そんな風に思考を処理している間にも、佐久場さんは近付いて来る。その足が一つ動くたび、男達の視線が変わっていく。憧れを帯びたものへと、変わっていく。
ぺこり。
彼女は一礼すると、僕の隣へと座った。その動きはゆったりとしていて、僕も思わず息を呑む。だが、すぐに首を振った。彼女は、僕の童貞を盗んだ可能性がある。気を許してはいけない。
僕は姿勢を正し、教壇を見た。もうすぐ、授業が始まるからだ。隣を気にせず、勉学に集中する。そういう構えを取る。じゃないと、殺されかねない。しかし。
「先生。まだ私、教科書がないんです」
「あー。転校生がいるんだったか。松本、隣のよしみで見せてあげなさい。机、寄せてもいいから」
教科書の存在を忘れていた僕は、結局美少女を隣に置くことになった。
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