幕間
軽井沢かがりは嘘吐きである
私があの男。つまり松本平助を見送り、足音が遠ざかるのを確認した後。
「さてお嬢様。そろそろ出て来ても構わないかと」
一階のトイレの前に立ち、中にいる主に呼びかけた。
「か、かがり……。本当に、もう行かれましたか……?」
「ええ。何事もなく」
返って来るのは、お嬢様の弱々しくも愛らしい声。
否。お嬢様に関してはもう全てが愛らしく、愛おしく。もし忠誠の代わりに死ねとおっしゃるのであれば、私は命さえも投げ捨てるでしょう。嗚呼。もし我が命で全てを贖えるのなら。今にも全てを煉獄へと差し出し、お嬢様の苦しみをお救い申し上げるというのに!
そもそもなぜあんなモブ顔の、さして男らしさもない男が……。はっ! これはトイレの水を流す音! 切り替えねば!
ガチャリ。
「……嘘まで吐かせて。悪かったわね、かがり。他人に作るのは、初めてだったから。どうしても気になっちゃって」
制服をお召しになられたお嬢様が、トイレから現れる。全てを仕上げた後、恥ずかしさと緊張のあまりに隠れてしまわれたのだ。
「いえ、お嬢様のためでしたら」
……危ない。間に合った。ええ、そうですとも。このかがり、お嬢様の為でしたらば。己にも、他人にも。嘘を吐くことは躊躇いません。それが、従者の使命……。
「かがり。申し訳ないけど、今日は送ってもらえるかしら。流石に間に合う自信がないの」
だが、お嬢様のお声が思考を断ち切る。そう、私はお嬢様が最優先なのだ。
「承知。着替えて参りますので、今暫くお待ち下さい」
地方都市の街路を、私は少々早めの安全運転で走り抜ける。以前はリムジンも走らせたことがあるから、普通車といえども運転は苦にならない。
主を後部座席に乗せた車の中は、非常に静かだ。運転音とカーナビ以外、一切音はしていない。車内では音楽はかけないし、ラジオを聴くこともない。ましてや会話を交わすこともない。それが日常だった。だがこの日、その静けさは。主自身の手で破られることになった。
「そういえば、かがり」
「なんでしょう」
突然聞こえたお嬢様の声に、私の心臓はドキリと跳ねる。まさか、遂に愛の告白か? よろしい。ならば
「松本さんは、私のご飯を喜んでくれたのかしら?」
上げて落とす。天国から地獄。こんなことはあってはいけない。いや、勝手に盛り上がってたのは私だけども。だが、一つだけ言えること。それは。「その名前は、あまり耳にしたくない」という事実。
故に、私の胸にはトゲが刺さる。それは決して和らぐことのない、永遠の痛み。生ある限り私を苛み、贖罪を要求するだろう。しかし、我が心の天秤は揺るがない。揺らぐはずもない。全ては愛。お嬢様を泣かせないこと。そこに帰結するのだから!
「大変喜んでおりました。『普段こんなに食べないから、少し食べ過ぎました』とも。礼の言葉は、本人から聞いてやって下さい」
私の抱える、この胸が張り裂けんばかりの苦しみ。お嬢様には、きっと分かるはずもない。ああ、この苦しみを。胸に満ち溢れる想いを。もし伝えられたのならば、どれだけ私は心安らぐのだろう。
「分かりました。……その。いつも、ありがとうございます」
ああ、もう。何故この人はそこまでいじらしいのか。私をキュンキュンさせるのか。私を悩ませるのか。私を苦しませるのか。しかもそこに悪意はない。いや、むしろ善意しかない。だからこそ。私は……。
「ああ、そこ。右です」
「あっ!? 失礼しました。次で曲がってリカバリーしますので」
しまった! 思考に気を取られて……。全く、私という女は。
「大丈夫よ。私は、かがりを信頼してるから。貴女は、間に合わせてくれる人。私を、悲しませない人。そう信じていますから。」
うぐっ! 無上の褒め言葉が胸にしみる! 私を悲しみから救ってくれる! ああ。このままどこか遠くへ、二人だけの世界へと連れて行ってしまいたくなる! だが、私は! お嬢様の! 佐久場、澄子の! メイドなのだあああああ!
……かくして、私はお嬢様を無事に送り届けた。届けたが。
「なにか、どっと疲れたな」
車を走らせながら、私はつぶやいた。いや、全てが全て。私の独り相撲だったのだけど。いずれにせよ、私はお嬢様からの信頼を裏切れない。なのに、私はお嬢様に日夜嘘を吐き続けている。好意……否。この身に余るほど溜め込んでしまった愛を、必死に隠し続けている。
「怖いからだ」
私はもう一つつぶやいた。そう。私は分かっているのだ。私がこの想いを打ち明けることで、今の関係が壊れるのが怖いのだ。後は……私自身の錯覚が怖い。愛と忠誠心を、取り違えている可能性。それはいつでもあり得ることだ。
「私は……従者でいい。十分だ」
だから、私は。軽井沢かがりは嘘を吐く。この世の全てに嘘を吐く。お嬢様の周りの方にも、とっくに嘘は吐いている。
監視役も要求されていたのに、私は常にお嬢様に味方している。それが、お嬢様の笑顔を。お嬢様のありとあらゆるお姿を拝むのに。そして守るのに。一番最適だからだ。
かつての、いや。ほんの少し前まであった光景を思い出す。主人は広い屋敷の、狭い角部屋に押し込められていた。軽い運動程度の外出は保証されていたが、食事は個室。私以外の者と会話を持てることも稀だった。
暗い顔をして、いつも本を読んでいた。補給も、「あてがい」の男達で賄われていた。暴走のない夜には、いつも枕に顔を埋めていた。自由を求め、涙を押し殺していたのだ。
「か、かがり。そこに居て。お願い……」
「お嬢様。かがりはここに居ります。そう、いつでも」
今でも思い出せる、軟禁された主人との会話。私が真にお嬢様を護らんとしたのは、あの時が初めてだった。
解放されたお嬢様は、今は一見普通の少女に見える。いや、美少女だけども。だが平常時を保つ反動は、暴走時に垣間見えていた。
「まつもとさん、を……。彼を、連れて来て下さい……っ。はや、くぅ……」
特定の他人を求める。暴走を堪え切れずに自分で上り詰めようとする。そんな行動は、以前には見られなかった。それがなにを示すのかは分からない。
「私が男だったらば……。あのような真似はさせないというのに……」
もう何度思い浮かべたのだろう。絶対に起こりえない妄想を。十八歳のあの日、お嬢様に一目で心を射抜かれてしまった時から。私はもう、戻れない道に分け入ってしまったのだ。
「……いかんな。やっぱり
とりとめのない思考の迷路をたどりつつも、私は運転をこなし続ける。車はやがて、都心のオフィス街へと入り込む。そこはコンクリートの迷路。だが私の思考回路よりは、易しい。スピードを落としつつも走り抜け、とある地下駐車場へと滑り込んだ。
「さて、今日も嘘を言いに行くとしよう」
車を降りれば、想い悩む従者の顔は消える。
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