第126話 日に三回じゃ足りない反省

曾子そうしという昔の偉い人の言葉に、「われ日にわが身を三省す」というものがある。自分がつまらないことをしてないかどうか、一日に自身を三回省みるというのである。こういう日めくりのカレンダーに書かれているような眠たげな言葉には、実は、人の目を開かせる力があって、先日、つくづくとこの格言について思い知ることがあった。


詳細は省くが、わたしはここでちょくちょく勢いのあることをぶち上げているにも関わらず、ぶち上げた内容を全然自分で守れていないということが分かったのである。不言実行どころか、有言不実行である。ひと様に向かって何か言ったことというのは、全部自分に返って来なければウソである。たばこが体に悪いと言ったその人自身たばこを吸っていたら、誰だってその矛盾を指摘するだろう。そのとき、「いや、たばこが体に悪いということは医学的に推測される事実であって、それとわたし個人が吸うかどうかということとは関係が無い。それはそれ、これはこれだ」と言うのであれば、まあ、道理は通っているがそれだけで、そう言って端然としているその人自身を信頼することはできるだろうか。わたしなら無理です。


言ったことを自分で守れているのかどうか、守れることを言っているのかどうか、常に省みなければならない。そうすると、現にそのようにしようとしている真面目な人は、うかつに話すことができなくなる。だからこそ、沈黙は金なのである。沈黙していることそれ自体が金なのではない。沈黙せざるを得ないことを知っているからこそ金なのだ。


それにしても、他人に向かって何かを言うことと、それを自分が守ることというのは、どうして異なってくるのだろうか。「言うは易く行うは難し」というのは、単純なことのようでありながら、そもそもどうしてそんなことが可能なのだろう。一生懸命頑張りますと口で言いながら、サボることができるのはなぜか。言行の不一致はどうして起こるのか。


言っておきながらやらないことができるのはどうしてか。言うまでもなく、それは、言うことと行うことは別のことだからである。当たり前。


言葉と行動は別。


言葉と行動が別物であるということを徹底していくと、他人の言葉を信じることができなくなりはしないか。行動によって担保してもらえないと、他人の言葉を額面通り受け取ることができなくなりはしないだろうか。「愛してるよ」と言われても、その愛を行動に移してもらわなければ、たとえば、ブランドバッグを買ってもらわないと、その愛が確認できないことにならないだろうか。なるだろう。


しかし、世の恋人同士は、必ずしもそのように考えてはいないと思われる。「愛してるよ」と言われれば、「ああ、この人は、わたしのことを愛しているんだなあ」と、大抵は思うだろう。なぜかと言えば、言葉と行動は大抵は一致するし、一致してしかるべきであると思われているからである。だからこそ、ウソが非難されるわけだ。


言葉と行動は大抵は一致する。でも、一致しないときもあるわけで、果たしてそうなっていないかどうか、聖人ならぬこの身は日に三回では足りず、三百回くらいは自省しなければならないだろう。

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