第124話 美人の条件 ~日常に美を求めること~

只見線という鉄道路線が人気である。只見線は、福島県会津若松市の会津若松駅から新潟県魚沼市の小出駅までをつないでいるものである。絶景の秘境路線ということで海外にまで知られるようになっているらしい。せっかく福島に住んでいるので、そのうち乗ってみようかと思っているのだけれど、なかなか機会を得ないでいる。


ただ、いざ乗るとなれば、できるだけ人がいないときに乗りたいものである。人気路線だから、人がいないときなんて果たしてあるのかどうか分からないけれど、せっかく美しい景色を見ているときに、SNS用にスマホをパシャパシャやるような輩がいたら、興が醒める。会津若松市のうまい酒でも飲みながら、風景と、一対一で向かい合えたら最高である。


さて、この「美しい景色を見に行く」という行為だが、これはいったいどのような行為になるのだろうか。「美しい」と聞いている、あるいは、写真や動画で見て「美しい」と知っている景色を見に行くというのは。初めから「美しい」と知っているなら、そこに行って感動するというのは、二度手間のような気がしないでもない。そもそも、どうして、美しい景色を見に、どこかに行かなければいけないのか。身近には美しいものが無いのだろうか。こう考えると、そんなことは全くなく、身近にも美しいものはいくらでもあることに気がつく。現に今、部屋の窓際でこの文章を書いているわけだけれど、窓からは、澄んだ青空が見える。この青空は、只見線の秘境のそれに劣っているのだろうか。まさか、そんなことはあるまい。


景色を見て美しいと思えるのは、それを見る人の心が美しいからだ。これは間違いない。しかし、心の美しさには深度があって、秘境絶景にしか感動できない浅いものもあれば、日常の至る所に感動できる深いものもある。センスと言い換えてもいい。他人が美しいと言う非日常のものにしか感動できないものと、日常の中に自ら美しさを発見できるもの。美的センスがあるのは、どちらか言うまでもない。これに関しては、すでに、兼好法師が言っているところで、「花は盛りの時だけを、月は澄み切っている時だけを見るものだろうか、いやそんなことないだろう」というのは、まあ、このことである。


どこかに行って美しさを求める人は美しくない、あるいは、それほど美しくはない。真の美人を目指すのだとしたら、日常にこそ美があることを認め、発見しようと努めるべきである。……只見線は、まあ、急がなくてもいいか。コロナでもあることだし。

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