第114話 大人の勉強の仕方について

大人の勉強なるものが流行っているようである。勉強は、子どもや学者のためだけのものではなく、普通の大人のためのものでもあって、それは、義務的でつまらないものでは全然なく、知的好奇心を大いに刺激する楽しいものだというのである。


勉強すること自体は大変結構なことだと思う。しかし、その勉強の内容については、いやしくも、「大人の」と冠するのであれば、ちょっと考えてみたほうがいいのではないか。どういうことかというと、たとえば、YouTubeに、お笑い芸人の中田敦彦が、日本史について解説しているものが見つかる。


まず、あらかじめ断っておくが、わたしは、別に中田氏に対して悪意を持っているわけでは全然無い。むしろ、彼の動画は、娯楽コンテンツとしてはよくできており大変面白く見ることができ、その点では、彼に対しては敬意を抱いている。


しかし、である。この動画を見て、勉強した、と思う人がいたら、それは大変な勘違いだと言わなければならない。このような動画を見ること、あるいは、このような動画を作ることは、決して勉強ではない。少なくとも、「大人の」勉強ではない。


このような動画は、誰か他の人が書いたテキストを自分の言葉でまとめなおしているだけのものだ。いい大人が、どこかの誰かが言っていたことを自分の言葉で説明できるようになったからといってそれで喜んでいる姿は、控えめに言っても滑稽である。テキストを自分の言葉でまとめなおすことは勉強とは言わない。それはただ書かれてあることを説明しているだけに過ぎず、そんなものはただの二度手間である。テキストを自分の言葉でまとめなおすことを勉強といわないとしたら、そのまとめなおした動画を見ることを勉強と呼ばないのは当然のことである。


勉強というのは、それをすることによって自分自身をあきらかに変えるものであって、そのためには自ら考える必要がある。歴史の話であれば、ある歴史的な出来事が起こったときに、その出来事がどうして起こったのかということをしっかりと考える。しっかりと考えようとすれば、その当時の状況や、その出来事の関係者のことを知りたくなるだろう。そうすると、これはなかなか難しいことに気がつくだろう。簡単に、これこれこういうわけで、この出来事が起こりました、とは行かない。その難しさに気づくことができると、歴史に対する見方が変わり、人間に対する見方も変わる。すると、自分が変わるということになる。こういうものを、勉強と言うのである。


娯楽のため、収入を増やすため、勉強する理由としては、それらもそれらでいいだろう。しかし、せっかく勉強するのだとしたら、「大人が」勉強するのだとしたら、自分自身を変えることを目的としてしてもよいのではないか。その方がずっと面白いと思うのだが。

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