第112話 自伝を読むことの意味と無意味について

相田みつをの「いちずに一本道 いちずに一ッ事」を読んでいる。書家で詩人である氏の唯一の自伝ということらしい。のっけから、話がずれるけれど、どこにあったかは忘れたが、氏の記念館に行ったことがあって、そのとき、初めて氏の若い頃の写真を見たのだけれど、まあ、男前でびっくりした覚えがある。こう言ってはなんだけれど、お書きになっている詩の内容から、もっとうらぶれた感じではないかと勝手に想像していたのだが、実に清々とした青年だった。


閑話休題。


自伝には、氏が幼い頃や若い頃に体験したことが書かれてある。そうして、その体験から得られたことが述べられている。それを読んで、どうにも分からない。なにが分からないのか。氏の体験したことやそこから彼が得たこと、そのことの中身についてではない。中身の方は、共感、もしくは、理解できるような気がする。もちろん、それは「気」だけの話かもしれないが、少なくともそのような気を持つことはできる。


では、何が不思議なのかというと、彼が体験したこと、そこから得た教訓などが、どうにも自分のこととして染みて来ないというこのことである。腑に落ちない。これは、ある意味では当たり前のことで、わたしは彼ではないので、彼の語ることが我が身のこととして入ってくるはずはない。しかし、そうだとすると、氏の語ることが自分のこととして実感できないのだとすると、どうして、わたしは、氏の書いたものを読むのだろうか。読んでも実感できないものを、あえて読むことの意味とは何か。これがどうも分からないのである。


分からないと言ったって、お前が勝手に読んでるだけじゃねえか、と言われると、それはまあその通りなのだけれど、では、一般に、自伝を読むことの意味とは、あるいは、自伝でなくてもいいのだが、体験談的なものを読むことの意味とは、どのようなものなのだろうか。ある人が人生や、人生の一場面で感じたこと為したことを、その人ならぬ別の人が読むことの意味とは。


ある人がどんな人なのかを知りたいと思うから読むのだ、と言われると、それはやはりその通りなのだろうが、自伝を読むことによって、その人のことを知ることが、果たしてできるのだろうか。もちろん、大まかなプロフィールは知ることができるだろう。しかし、では、そのひととなりを、今付き合いがある人と同じような水準で感じ取るとはできるのか。そこまではできないとしたら、それでも、「人を知る」と言えるのだろうか。「人を知る」とは、どういうことか。


それらの疑問を抱くことができたという点において、わたしにとって、相田みつを氏の自伝を読んだ意味はあったが、自伝の中身それ自体には特に意味は無いだろう。

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