第102話 レビューを読んで、低評価の作品を鑑賞しないことは、本当にいいことかどうか
「男はつらいよ」という映画をご存知だろうか。この50作目に当たる作品が上映された。主演の俳優はもうずっと以前に亡くなっているので、過去作品の映像を借りて、うまいこと作られたそうである。
そのうまいこと作られた映画のあるレビューをたまたま読んでしまって、そのレビューがそれなりに整った形式のものであり、言葉を尽くしてその映画をこきおろしていた。結果、わたしは、その50作目の映画を、(少なくとも映画館では)観る気をなくしてしまったわけだけれど、ちょっと考えてみると、これは果たしていいことなのかどうか。
ここでわたしが問題にしたいのは、映画などの芸術作品は、観る人によって評価が変わってくるわけだから、どんなレビューを読んだのであれ、自分で観ないことには、適正な評価はできないわけで、自分で観るほかないのだ、というような類のことでは、全然ない。あるいは、仮にそのレビュー通り、しょうもない映画だったとしても、それを観ることによって、映画の真贋を見分ける能力が磨かれるだろうから、低評価の作品を観て評価通りだったとしても、観たことは絶対に無駄にならない、というような話でもない。
そうではなくて、レビュー通り低評価だったとして、低評価だったから観るのをやめようと思って映画を観ないことの方が、レビューを信じずに(あるいは読まずに)ひどい映画を観ることと比べて、本当にいいことなのかということである。これは一見すると、その方がいいことであるような気もする。なぜかと言えば、観ないことによって、お金と時間とエネルギーを節約できたからである。もしも観ていたら、その分にかけるお金と時間とエネルギーを失っていたわけだから、そうしなくてよかった、レビューは本当にありがたいなあということになりそうである。
しかし、これ、本当にそうなのだろうか。有限なお金と時間とエネルギーを節約して、より自分にとって価値のあることにそれを注ぐという考え方は、一見、まともであるように思われる。そうして、事実まともであろう。資源を、より価値のあることに使うことの方が、より価値のないことに使うことよりも、より価値があることであることは確実なことだ。そもそも、資源をより価値のあることより、より価値がないことに使う方が、より価値があるということの意味が分からない。
でも、本当に本当にそうなのだろうか。今回、わたしはレビューを見て、「男はつらいよ」の50作目を見ないという決断をした。そうすることで、その分のお金と時間とエネルギーを他に注ぐことができるようになった。より有益なことにである。しかし、そうして、より有益より有益と思われることに、お金と時間とエネルギーを傾け続けることそれ自体は、有益な生き方であると言えるだろうか。言えるとしたら、いったい何に対して?
わたしたちは、有益とか無益とかいうことに対して、こだわり過ぎているのではないか。有益な人生を送りたい、すなわち、ちょっとでも無駄を省き、ちょっとでも得をして生きたいという思いによって過ごされる人生とは、本当に有意味なものなのだろうか。
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