第86話 事件は一回しか起こらない

日々、色々な事件が起きる。たいてい、ロクでもない事件ばかり耳にするが、それは、報道する方がロクでもないからに他ならない。まともな事件だって起きているはずだけれど、そんなものを報道しても、そうそう誰の気も引かないだろうということで、ロクでもない事件ばかり流しているわけだ。そうして、それは、結局は、そういう事件をわれわれが望んでいるということでもある。他人の不幸は蜜の味。しかし、蜜ばかり摂っているのは健康的とは言えないのと同様、他人の不幸ばかりを聞いて喜んでいるとなると、それはもう病気である。精神の病。ロクでもない事件を聞いて、いかにも悲しそうな振りをしたり、憤りに耐えられない振りをしたりしている人は、重篤な患者である。


「いや、わたしは事件を見聞きして、自分なりに考えをまとめているんですよ」と言う人がいるかもしれない。「感情に任せて、悲しんだり怒ったりしているばかりじゃありません」と。いいでしょう。たとえば、児童虐待の事件を見聞きして、悲しみ憤りを持つばかりではなく、なぜ児童虐待が起こるのか、虐待を行う親の心理的条件や、虐待を許してしまう社会的状況を分析してみたとする。で、それで? それでも何もない。上のような人は、それで満足なのである。事件はすっかり平らげることができた。ご馳走様という具合である。


しかし、仮にその人が事件をしっかりと分析できたところで、起こった事件を起こらなかったことにすることはできない。ここに思いを致してみよう。いくら事件を分析してみても、そんなものは現に起こった事件に対して、何らの意味もないのである。上のような分析主義者にはこの視点が決定的に欠落している。彼らにとっては、事件は分析されておしまいなのだ。いくら見事な分析をしてみたところで事実が変わるわけではない。虐待された児童の痛みが少なくなるわけでもなければ、虐待した親がひょっとしたら抱く後悔の念が払われるわけでもない。分析というものは当該事件において無力なのである。この点に思いを致さない分析・評論・コメントといったものを、わたしは全く信用しない。そうして、そのような分析が多すぎるのではないかと思う。


事件の一回性に思いを致してみよう。その事件が一回しか起こらなかったということ、同種の事件はあるかもしれないが同じ事件は存在しないということ、これを心の奥深くでしっかりと感じると、それはそのまま自分の人生と重なってくるものがある。誰が自分の過去を分析するものか。自分の過去はいつだって思い出されるだけだ。事件を分析するということは、その事件は自分の人生とは関係が無いものだと言っているに等しい。自分の人生と関係が無いこととたわむれて何が面白いのだろうか。しかし、面白くなくてもそうなってしまうというのが、病気の病気たるゆえんである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る