第81話 感動する話の大半は、実は、マヌケな話なのではないか

感動ストーリーに弱いということを先に書いた。特に、子どもと動物のお話に弱い。弱いのだけれど、涙腺崩壊させながらも、どうもこれは違うのではないか、本来感動すべきことでも何でもないのではないか、と思うことがよくある。


たとえば、「親が亡くなったあとに、親のありがたみに気がついた。生きているときに、もっと親孝行しておけばよかった」的な話があったとする。まあ、まとめてしまうと、つまらなく聞こえてしまうけれど、家が貧しくてとか、片親でとか、十分に愛情を注いでもらったのに反抗ばかりしてとか、旅行に連れて行ってあげようと思っていた矢先に交通事故で亡くなってとか、そういうような詳細が描かれて、感動的な話になっていると思ってください。


悲しみに暮れ、後悔しきりの本人。しかし、である。彼、もしくは彼女には、親孝行をするチャンスは十分にあったのだ。もしも全くチャンスが無かったら後悔などできないことだろう。チャンスはあった、しかし、そのチャンスを利用しなかった。つまり、彼もしくは彼女は、ただ間抜けなだけなのではなかろうか。失ってから気がつくというのは、裏返し、失うまで気がつかないということである。ということは、もしもその親が長生きしていたら、彼もしくは彼女がずっと親孝行しなかっただろうということは、想像に難くない。


そんな風に考えてくると、どうも感動しているのがバカバカしいように思われてくる。わたしの涙を返せという気分になる。そうして、そんな話に感動している他人も、そんな話を感動的に語っている人も、ひとしなみにバカみたいに思われてくる。近親憎悪である。


感動というものは、感性が鋭い人がするものだと思われているが、実は違うのではないか。感性が鈍い、物事を考えない人が、やたらと感動するのではあるまいか。どうもそんな気がしてならない。何かに感動しているとき、一度、その感動の根にあるものが何なのか、それは本当に美しいものなのかということを自身に問いかけてみることを、わたしはお勧めしたい。

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