第80話 臨死体験より臨「生」体験の方が面白い

【今日も生きてて不思議】


朝、眠りから目覚めたときに、「あ、今日も生きてた」と思うことがある。別に、わたしは、明日をも知れぬ命というわけではない。わけではないけれど、今日の命の不思議を思うのに、不治の病に冒されないといけないとしたら、窮屈なことだろう。


改めて言うことなのかどうか、いや、改めて言って通じることなのかどうか分からないが、この「生きている」という現象は、非常に興味深いものではないだろうか。わたしは、人生の中で起こるあれやこれやについて言っているわけではない。いや、まあ、それらもそれらで趣深いところがあるけれど、この「生きている」という現象それ自体がすでにして、不思議で面白いと言っているのである。


「生きている」なんてことは、現に死にかけている人以外にとっては当たり前のことで、ちっとも不思議なところなんて無いと思う人がほとんどかも知れないけれど、当たり前だと思われることにこそ不思議は満ちているものである。たとえば、あなたは、「生きよう」と思って生きているだろうか。毎瞬毎瞬、「生きよう」と思って生きているという人は稀だろう。それにも関わらず、現にあなたは生きている。だとしたら、「生きている」ということは、あなたの意志の結果ではないということになる。自分が意志したものではないのに、人生というものが与えられているわけだ。気がつくと、人生の中にいる。これは、大変不思議なことではないだろうか。(ちなみに、ハイデガーという哲学者は、この不思議を「被投性」と名付けた。)


こういう不思議に気がつくことができると、人生の見方が確実に違ってくる。人生の見方が変われば、人生における具体的な振る舞いも変わる。「生きている」こと自体が不思議だと気がつけば、「生きていること」それ自体を味わうことができるようになり、生きている中におけるあれやこれやを欲しがらなくなる。日本酒も欲しがらなくなる……まあ、それほどは。人生を一歩引いて見ることができるわけだ。



【感動的な話のズレ】


話が少しずれるかもしれないが、わたしは、感動的な話というのに弱いところがある。特に、子どもと動物の話はいけない。子どもが親を思う話であったり、動物が飼い主を思う(ように解釈される)話であったりすると、すぐに涙腺が崩壊する。しかし、涙腺を崩壊させながらも、頭のどこかで、これはちょっと違うのではないか、という声がする。たとえば、以下のような話がある。



 会計士の父親がある日仕事でくたくたになって帰ってきたところ、それを出迎えたまだ幼い娘から、時給を聞かれた。何でそんなことを聞くんだと思った彼が、それでも、

「そうだな、20ドルくらいかな」

 と答えると、

「パパ、お願いがあるんだけど、わたしに10ドルくれない?」

 と娘が言ってくるではないか。仕事で疲れてイライラしていた彼は、

「お前が不自由しないために働いているというのに、疲れて帰ってきた父親に言うことが、それか!」

 と怒鳴った。それを聞いた娘が恐れ入って自分の部屋に戻ると、少しして彼は、自分の行為を反省して、そもそもがいつもおねだりをするような娘でもないので、よっぽど何か買いたいものでもあるのだろうと思い直して、子ども部屋へと行った。そうして、ベッドの上で泣いていたらしい娘に向かって、

「さっきは、怒鳴ったりしてすまなかった。ちょっと仕事で疲れていたんだ。さあ、これは、お前の10ドルだ」

 10ドルを与えると、彼女は、ベッドの枕の下からコインと紙幣を取り出し始めた。それなりの金額になりそうなのを見て、

「もうたくさん持っているじゃないか」

 と驚いて彼が言うと、女の子は、受け取った10ドルを一緒にして、

「これで20ドルになるから、パパの一時間を買えるね」

 と彼に向かって、にっこりと微笑んだ。



うーむ……書いていてまた泣けてきた。泣けてきたのだけれど、同時に、頭の中で声がするのである。「この父親は、仕事と子どもを天秤にかけたときに、仕事の方を優先していたんだな。あるいは、そもそも、天秤にかけてもいなかったかもしれない。いつまで生きるつもりだったんだろうか。あるいは、娘がいつまで生きていると思っているんだろうか。生きているということを当たり前のことだと思い見なしているから、こんなことが起こるんだなあ」と。


生きていることがそれだけで不思議だという思いがあれば、自分が生きていること、娘が生きていること、娘が自分の娘として生まれてきたこと、これらのことがすべて不思議で、ありがたい気持ちになることだろう。そのような存在や関係性を仕事と秤にかけることになどなるはずもない。(……うーん、やっぱり、ちょっと話がズレたかもしれない。申し訳ないが、ズレていたら、そのズレはあなたの方で修正しておいてください。)



【死者は語らない】


生きていることが不思議である理由のまた一つとしては、生きていることには比較対象が無いことが挙げられる。いや、生きていることの逆は、死んでいることだろうと思うかもしれないけれど、われわれ生きている人間は、これまで一度も死んだことがない。だから、死んでいることと比較して生きていることについて述べることはできない。臨死体験というものがあるが、あれは、あくまで生きている中での体験に過ぎない。臨死体験の統計に血道を上げている学者もいるようだけれど、そんな統計をいくら取ったって、それで死について理解するというわけにはいかない。


死者が語ってくれれば死について分かるかもしれないが、死者は語らない。これに関しても突き詰めてみると、色々と面白いことが分かる。たとえば、葬儀がある。葬儀場では、故人を偲んで親族や友人が泣くことがよくあることだろう。当然に、悲しくて泣くわけだけれど、あれは、何が悲しいのだろうか。死んだ人は悲しいとは思っていない。いや、思っているかもしれないけれど、それは生きている人には絶対に分からないことである。だとしたら、死んだ人に同情して涙を流すというわけには、実はいかないのである。死んだ人は悲しんでいない。非業の死を遂げたとして、それでさぞ無念だっただろうと考えるのも、やはり生きているこちら側の考えなのである。とすると、あれら、故人を偲んで泣いている人というのは、故人に会えなくなって悲しいという、徹頭徹尾、自分の悲しみのために泣いているということになる。あれらは、自己憐憫の涙だということになる。葬儀場において流される涙はすべてその人自身のためのものなのだと考えると、厳粛であるべき葬儀の場が、死体を前にして自分自身の悲しみを思って涙する人たちのための空間という、異様なものとして立ち現れてくる。



【やっぱり感受性が大切です】


生きていく上で大切なことは感受性を持つことに尽きるとわたしは思う。感受性と言っても、美的センスのことではない。そうではなくて、あることを不思議だと思うその感覚のことである。それさえあれば、人生はいくらでも豊かになる。一見当たり前だと思われることは、実は、全く当たり前のことではない。それに気がつくことさえできれば、一瞬にして、あなたの人生は装いを新たにする。しかし、これは本当に難しいことであることも確かである。感受性を持ちなさいと命じて、「はい、持ちました」というわけにはいかない。いかないのだけれど、子どもの頃は、多かれ少なかれみな持っていた感覚である。(ちなみに、上の感動話の中に出てくるような子は、子どもながらにしてすでに大人である。)子どもの頃は、色々なことが不思議だったでしょう? ちょっとそのとき考えていたことを思い出してみてはいかがだろうか。感受性を持てば、どこか遠くに何かを求める必要が無くなる。青い鳥はいつだってあなたのそばにいるのである。

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