第65話 語らずに済ますということ

言わないと分からない人に言うのが苦痛である。まずもって、当然であるとこちらが思っているそのことを言うこと、それ自体が苦痛であることに加えて、言わないと分からない人というのは、言ったってなかなか分からないのが常であり、何かを言うと、その倍は説明しなければいけなくなる。これが面倒である。そうして、説明してもやっぱり分かってもらえない場合の徒労感たるや、筆舌に尽くしがたいものがある。


言うことが尊重される世の中である。何ごとでもはっきりと主張すべきだという主張が、かまびすしい。この風潮に関して、一つ言っておきたいのは、自分の意見をはっきりと主張するべきだ、というのは、言語や論理への絶対的な信頼がある西洋文化の背景があってこそ、成立する話であるということだ。日本人は、自分の意見をはっきりと主張できない、としばしば非難されているけれど、当たり前の話である。言語や論理に対して絶対的な信頼など無いのだから。国際社会においては、日本人も自分の意見をはっきりと主張しないといけない、という意見をよく聞くが、国際社会を主導しているのが西洋社会であるとすれば、それは、相手の得意分野で戦うべきだと言っているに等しい。そのような主張自体が、こちらではなく相手を利する行為であるということは、覚えておいた方がよい。


それはそれ。西洋社会には、以心伝心という言葉はあるのかどうか。少なくとも、英語では訳せないらしい。しかし、いくら英語や他の西欧諸語で訳せないとしても、だからと言ってそれが存在しないということにはならないだろう。もしも存在しないと言うなら、「コミュニケーション」の適切な訳語を示してもらいたいものだ。


言わなくても分かるというコミュニケーションの形式は確実に存在する。しかし、これには相手を見定める必要がある。この人には言わなくても分かるなという信頼を寄せられる相手との間にしか、通用しない。そのような信頼を寄せるためには、現に話してみる必要があるだろう。だとしたら、結局は、言語によってコミュニケーションを取るんじゃないかということになるかもしれないが、まあ、多少はやむをえない。さすがに、目と目で通じ合うというわけにはいかない。


言わなくても分かる相手にしか言いたくない。語るに足る相手とは、語らずとも済む相手である。そんなものは矛盾しているじゃないか、その矛盾を説明せよとくる人は、少なくとも、わたしが語り合いたい相手ではない。このように、語る相手を限定するような人間が、語る相手を限定できない「書く」という形式を取る意味は何か。決まっている。語るべき相手に、書いたものを読んでもらうことで、語らずに済ますためである。色々と述べてきたが、つまるところ、わたしは面倒くさがりであるというに過ぎない。

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