第66話 疑った末に現われる潔さ

物事の前提を考えるのが好きである。歴史の内容を知るより、そもそも歴史とは何かと考えること、幸福になる方法を知るより、そもそも幸福とは何かと考えること、などなど。だから、テレビのニュースなどは、ほとんど見ない。世の中の出来事に関心が無い。浮き世離れしていていいですな、と言われるかもしれないが、これが、全然浮き世から離れてなどいないのである。俗世間にどっぷりと浸かり込んでいる。近頃は、日曜日も仕事をしている。同じように仕事の方、お疲れ様です。


しかし、まあ、浮き世にいることも悪いことばかりではない。浮き世について、その浮き世の前提について考える楽しみがある。浮き世から離れて、出家などしていたら、世のことなど考えないだろう。それが出家するということの意味だからだ。出家について一言いえば、出家してから世について悟るのではない、出家することがそのまま悟りなのである。とはいえ、今の世だと、ゴルフに精を出しているような坊主もいるようだから、出家しても俗世間と戯れることはできるようである。便利な世の中である。


物事の前提について考えようとすると、自然と疑い深くなる。他人の言動に信用が置けなくなる。これはなんと寂しいことではないだろうか。しかし、その寂しさと引き替えにして手に入るものが確かにあって、それが認識の果実である。疑うほどに、いよいよ見えてくるものがある。見えるようになるにつれて、人があまり疑わないようなことも、ますます疑ってしまう。


他人から、「金を預けてほしい」と言われれば、誰しも多少は疑うのではないだろうか。うまいこと言ってだましとろうとしているのではないか、と。オレオレ詐欺が横行する世の中であるから、ましてなおのことだろう。しかし、これこれこういうことをすべきだ、と、たとえば、「幸福になるためには他者貢献すべきだ」と言われると、それに対して疑いの気持ちを抱く人は減るのではないか。「金を預けてほしい」と金を要求されたときより、行為を要求されたときの方が、抵抗は少ないように思われる。しかし、わたしは疑う。そういう行為を他人に要求することによって、何かわたしのことをだまそうとしているのではなかろうかと。


他人に金を預けるときはあげた気で預けろと言われることがある。だまされてもいいと思って預けるのである。他人が勧める行為をするときも同じ気持ちでいた方がいいだろう。だまされてもいいと思ってその行動をとる。これは、なかなか潔いことではないか。懐疑の末にあらわれる潔さである。

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