第60話 舌先3mmにある心と、異邦人

舌が荒れている。舌先にちょんっと水泡のようなものができていて、舌を動かすたびに、口内のどこかに当たりチリチリと痛むので、飲み食いすることはおろか、話すのもおっかなびっくりしなければならない。そんな状態がここ数日続いている。


もう何もかも嫌になった。


……と、まあ、それはちょっと大げさだけれど、日常為していることのほとんどが、どうでもいいことのように思われているのは確かなことである。今日は仕事があったのだが、もともとどうでもいいと思っていた仕事が、さらに心からどうでもよくなった。


たぶん、舌が治れば、この気持ちも治ることだろう。元通りである。舌が荒れていれば心が荒れて、舌が治れば心も元通り。ということは、わたしの場合、舌先に心があるということになるのではなかろうか。なんということか。


いま、「元通り」と言ったけれど、どうして舌が治ったわたしの方が「元」で、舌が荒れている今のわたしがその「元」の劣化バージョンということになるのだろうか。これは、一種の差別ではなかろうか。自分差別。もしかしたら、舌が荒れた今の状態が本来のわたしで、舌が治ったわたしはちょっと気取ったわたしになるのではないか。いや、待て待て、こんな、何もかもどうでもいい的なことを考えているわたしが、本来のわたしでいいのか? しかし、いいとか悪いとかというのは、どういう基準によって決まるのか。


それは理性的かどうかというものだろう。わたしたちは、理性的な主体ということになっている。理性的であることが人間の本来であり、非理性的であれば非人間的ということになる。この基準に照らせば、舌が治ったわたしの方が通常で、舌が荒れた今のわたしは異常ということになる。


だが、しかし、人間は本当にそれほど理性的な存在なのだろうか。それは、一種の擬制ではないのか。たとえば、今これを書いているのが夜中の12時近くて、もう眠いのだが、眠いと理性的な判断はしにくくなる。酒を飲んでもそうであり、風邪を引いてもそう。人間が理性的存在だとすると、眠たいときや酔っ払ったとき、風邪を引いたときは、人間ではなくなるということなのだろうか。


そうではないだろう。眠たいときも、酒を飲んだときも、風邪を引いたときも、同じ人間である。それらのときに人間でなくなって、それらの状態が元に戻ったときに人間に戻るとしたら、忙しくてしょうがない。そうすると、人間というのはそれほど理性的な存在ではないということになる。


舌先がちょっと荒れるだけでも、世界の見方が変わるのが人間である。いや、まあ、それはあくまでわたしの場合で、おおかたは舌先が荒れたくらいじゃそこまで大きくは変わらないかもしれないが、それにしたって、何か嫌なことがあれば世界は暗くなり、何かいいことがあれば世界は明るくなることは、誰も認めるところだろう。


人間はそれほど理性的な主体ではない。理性的なときもあれば、非理性的なときもある。非理性的な言動(たとえば、イライラしているときの八つ当たり)を、人はしばしば後悔するが、なにそれほど気にする必要も無い。そのときは、そういう気分だっただけのことである。それでおしまい。それを後から理性が、「あんなことするべきじゃなかった」と判断しても、「するべきじゃなかった」時は、理性がしゃしゃり出てくる余地などなかったわけだから、後悔してもしょうがないのである。(ただし、もちろん、自分が気にかけなくても、他人が気分を害している可能性はある。)


太陽がまぶしかったから人を殺したと言った異邦人のことを、わたしは思い出す。およそ、太陽がまぶしかったなどという理由にもならない理由で人を殺すなど理解できないことであるように思われる。しかし、それは理性の判断である。彼は理性の判断を取らない状態にあった。わたしたちが風邪のときに、そうであるように。ただ、それだけの話である。

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