第61話 信じることを越えて考える楽しさ

ようやく舌先が荒れていたのが治ってきた。この一週間というもの、食べたいものも食べられず、話すのも億劫で、雨に打たれた子犬のようにみじめな気持ちを抱えていたけれども、ようやくすっきりとした気持ちで生きていける素地が整ったのである。


それもこれも近頃お参りするようになった神社のおかげかもしれない。この頃、ゆえあって、ちょこちょこと神社に参詣しているのである。お賽銭を差し上げた甲斐があったなあ。いや、ありがたや、ありがたや。


……と、そんな風に思うのが素直なところなのかもしれないけれど、どうしたってそんな風には思えない。わたしには、その種の信仰心の持ち合わせは全く無い。この世の神秘を感じるという点で宗教的な人間だとは思うけれど、いわゆる神様のことは全く信じていない。


なぜ信じないのか。


たとえば、ここに、「あなたの舌が治ったのは、あなたが参詣した神社の神様のおかげですよ」と言う人がいたとする。わたしは、この人に反論することができるだろうか。できると言えば、できる。「いや、舌が治ったのは、わたしの体の自然治癒力によるものです」と。しかし、わたしは、そもそも、自分の体の自然治癒力なるものがどのようなものか、そういうものがあるらしいということは聞いたことがあるけれど、具体的にどのようなものか全く知らないし、仮にそう抗弁したとしても、「いえ、その自然治癒力に働きかけてくださったのが、神様なのですよ」と言われてしまうと、もうこれ以上は、どうしたって反論ができなくなってしまう。ここで、話はおしまいとなる。


この「おしまい」が、わたしには面白くない。神様で話が終わってしまうと、もうそれ以上なんにも考える余地がなくなってしまう。つまらない。だから、信仰心を持っていないのである。


信仰心を持っている人は、日本では、ちょっと怪しげに映る。宗教を信じている人というのは、どこか普通ではないような、そんなイメージをもたれがちである。しかし、そういうイメージを持っている人、自分は宗教を信じていないと言う人が、また別種の宗教の信者である可能性はある。たとえば、自由主義、民主主義、平和主義、好きなことをして生きていく主義、あらゆる人が自分らしく生きられる社会が素晴らしい主義、などなど。このような主義は、それを持っていても信仰だとは見なされない。しかし、それが信仰だと見なされないというそのことこそが、もしかしたら、その別種の宗教の強力な効果なのかもしれない。


信仰心を持っていないと、ここまで疑うことができる。好きなことをして生きていくことがいいことだと思われているようだけれど、それって本当にいいことなのだろうか、と。そんなことを疑問に思って一体何の意味があるんだという声が聞こえてきそうだが、その疑問に意味があるのかどうかを前もって知っていたら、いちいち問いはしない。そうして、問うて考えた結果、意味が無いことが分かるかもしれないが、仮に意味が無いということが分かったとしても、考えること自体が面白いのだから、特に問題は無い。


信じることよりも考えることが面白い。この面白さに飽きないうちは、信仰心を持つことは無いだろう。

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