第55話 幸福の中に不幸があり、不幸の中に幸福がある

禍福はあざなえる縄の如し、という言葉がある。幸福と不幸は表裏一体で、代わる代わるやってくるという意味である。わたしは、この言葉は、ちょっと違うなという気がしている。ただし、幸福と不幸は代わる代わるやってくるわけではなくて、ずっと幸福ばかりやってくることもあれば、泣きっ面に蜂、不幸続きのこともある、などということを言いたいわけではない。そうではなくて、幸福の中にも不幸な部分があり、不幸の中にも幸福な部分があるということである。


どういうことか。


たとえば、あなたが片想いしていた人と結ばれたとする。これは、幸福な出来事だろう。しかし、片想いしていた人と結ばれるということは、一人でいられる時間が少なくなるということをあらわしているし、もしもその人と結ばれなかったら出会えていたもっとよい人と結ばれる可能性が無くなる、ということをあらわしている。これは、結ばれたことの不幸な側面だろう。


と、こう言うと、どれだけ性格がねじ曲がっていれば、そんな物の見方ができるのか、と呆れられることは目に見えているのだけれど、しかし、以上のことは真実であろうと思われる。もちろん、「そもそもわたしは一人の時間なんて求めていないし、結ばれた人以上の人なんて考えも及ばないから、そんなの全然不幸じゃない」と言う人もいるだろう。それはそれで構わないのだけれど、しかし、少なくとも、上のような可能性があること自体は認められると思う。


お金が無い。これは、不幸なことである。しかし、お金があることによって、引き起こされる様々なトラブルを回避することができているという可能性を考えると、幸福な側面がある。そんなのただの負け惜しみじゃないかと思う人もいるかもしれないが、しかし、お金が入ったことによって、家庭内が不和になったり、命を狙われたりする事案には事欠かないのだから、ただの負け惜しみや開き直りとは言い切れないのではないか。


このように考えてくると、幸福の中に不幸があり、不幸の中に幸福がある。何かを得たように思えてもそのとき同時に必ず何かを失っており、何かを失ったように思えてもそのとき同時に必ず何かを得ている。何かを得たときはその得たものについてしか意識が向かないので嬉しくなり、何かを失ったときにはその失ったものについてしか意識が向かないので悲しくなるものだが、上のように考えると、得たときにも嬉しく思ってばかりはいられず、失ったときにも悲しがってばかりはいられないことになる。


いられないと言ったって、現にそのようであるのだからしょうがないじゃないか、と言われると、それもまたその通りで、誰が幸福の中で不幸を思ったりするものか、ということになる。思い人に思いが通じたそのときに、「もしかしたら思っていた通りの人じゃなくて、ひどい人で、付き合っていく中でこれから苦労するかも。人生ムダにするかも」なんて考えるのは、普通は、よっぽど悲観的な人だとされる。しかし、そのようになる可能性があること自体は、やはり否定できない。


とはいえ、上のような理屈でいけば、仮に、付き合ってみて相手がひどい人で人生ムダにしたとして、その不幸の中にもやはり幸福な面がどこかにあるはずということになる。もう何が何やら。幸も不幸もあると言えばあるし、無いと言えば無いようなものなのかもしれない。

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