第54話 If I were you, I would ...

以前書いたことと、同じようなことを書く。


何度も同じ事を書いて恐縮だけれど、どうして、何度も同じ事を書くのかと言えば、どうしてもそれが確からしいと感じられてしまうからである。で、書きたくなる。しかし、それが本当に確かなことかどうかは、読み手の判断に任されている。だから、よければ、考えてみてください。


表題は、「もしわたしがあなたなら、わたしは……」くらいの意味である。さて、「わたしがあなたなら」というこの言い方に、注意してもらいたい。これに、違和感を覚える人、あまりいないのではないか。しかし、である。「わたし」が「あなた」であることなどありえないことだろう。「わたし」が「あなた」だったら、それは「あなた」であって、「わたし」ではなくなってしまう。そんな不可能なことを前提にして、何かを述べるということにどのような意味があるのだろうか。


人は実に簡単に、「わたしがあなたなら」という言い方をするけれど、そんなことは本来ありえないことだという意識はほとんどない。その意識がほとんどないということが、実に簡単にそのような言い方をするという事実に、如実にあらわれている。


「わたしがあなたなら」であれば、まだマシな方で、それがさらにひどくなると、「わたしが織田信長だったら」などという言い方になる。いいですか? 「わたしが、400年以上前に死んだ、現在とは全然違う文化に生きていた、しかも史上に特筆すべきことをした人だったら」などということは、一体何を言っていることになるのか、このことの意味をしっかりと考えてみてください。


歴史を専門にしている人でも、平気で、この、「わたしが歴史上の人物だったら」という言い方をするようである。その言い方そのままをしなくても、「信長はあのときこうすべきで、このときはこうすべきではなかった」という言い方をしていれば、それはその中に、「わたしが信長だったら」が前提されているということだ。そんなことはできない。それこそが、歴史を見るときの、基本的な態度ではないか。そこを離れて歴史を見れば、歴史は、それを見る人にとって、いくらでも自由に組み替え可能な、積み木細工のようなものになってしまう。そんなものは、やんちゃな子どもの一蹴りで崩れてしまうようなチャチなものだろう。


ひるがえって、「わたしがあなたなら」というこの言い方ができない、ということが、他人を見るときの基本的な態度ではないだろうか。人は実によくこの言い方で、他人にアドバイスをしたり、批判したりするようだけれど、そのような言い方でなされたそれは、可能な事態を表していないということを、アドバイスや批判に先立って、まず気に留めておくべきではないか。そうして、それを気に留めておけば、なかなか他人に向かって、気楽にアドバイスや批判などできなくなる。できずに、他人から離れて、自分を見つめることになる。実に健全なことであると思う。


ところで、表題を英語にしたことには特に意味は無い。カッコつけてみたまでのこと。……今、この「カッコつけてみた」という言い方に違和感を覚えた人いますか? どうして、英語を使うとカッコつけたことになるのでしょうか。英語=カッコいい、という通念はどこから来るのか?


わたしたちは、実に多くのことを前提にしてしまっている。しかし、それらは社会生活をそれなりに生きていく上で仮に従っていることに過ぎない。デカルトいわく、「仮の道徳」。この仮のことを本当のことだと見なしきってしまうことは面白くないことだと「わたし」は思うけれど、「あなた」がどう思うかはわたしには分からない。

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