第48話 相手の立場に立つことの難しさ

相手の立場に立って考えましょう、ということはよく言われることである。しかし、これ、そう気楽に言われるほど簡単なことだろうか。そもそも相手の立場に立つというのは、どういうことか。全体、そんなことは可能なのだろうか。


たとえば、あなたに恋人がいるとする。あるとき、彼もしくは彼女と喧嘩したとしよう。頭が冷えたあと、自分の言動を振り返るために、その恋人の立場に立ってみようと決意したとする。そうして、恋人の立場から、あなた自身の言動を振り返ろうとしても、それは、どこまでいっても、あくまで、あなた自身が立っていると思っている恋人の立場であるにすぎない。


たとえば、あなたに子どもがいるとする。大きくなってきた子どもが、どうもこの頃、言うことをきかない。うまくコミュニケーションが取れなくなった。そのとき、あなたは、子どもの立場に立ってみようとする。子どもの立場から見ると、あなたが、彼もしくは彼女にとってどんな存在に映るのか。しかし、その立場とは、どこまでいっても、あくまで、あなた自身が立っていると思っている子どもの立場であるにすぎない。


あなたが恋人の立場に立つためには、あなたがあなた自身の恋人になる必要があり、あなたが子どもの立場に立つためには、あなたがあなた自身の子どもになる必要がある。しかし、そんなことは言うまでもなく、不可能なことだ。


では、もっと一般的な立場だとしたらどうだろうか。あなたの恋人ではなくて、一般に男性、あるいは、女性、とか、あなたの子どもではなくて、一般に子どもというような。これならできそうな気もする。しかし、これだって、大分難しい話ではないだろうか。ある例外的な場合を除いては、女性は男性になることはできず、男性は女性になることはできないし、大人はかつて子どもだったけれど、その時のことを思い出すことは難しく、子どもは大人の立場に立とうとしても一気に大人になることはできない。


このできなさについて自覚的でない人の発言というものを、わたしは全く信用しない。さるお笑い芸人がネカフェ暮らしを酷評したようである。しかし、そもそも彼は、ネカフェで一晩明かしたこともなければ、ネカフェ暮らしをしたことなどないだろう。ということは、彼には、ネカフェ暮らしをしている人の立場など、全く分からないわけである。その分からなさについて彼が自覚的であるかどうか、それは彼に訊いてみないと分からないことだけれど、少なくとも、わたしにはそうは思えない。


昔、お釈迦様は、位と妻子を捨て、王宮を出て、野にくだった。なぜか。人生について考えたときに、王宮内で暮らしている人より、王宮外で暮らしている人の方が圧倒的に多く、王宮内で暮らしながら人生について考えていても、らちがあかないと思ったからだろう。だから、実際に立場を変えてみたわけである。それがそのまま悟りではないかとわたしは思う。お釈迦様ならぬわたしたちは、なかなか何もかもなげうってというわけにはいかないだろうけれど、相手の立場に立つことの難しさを認識しておくことくらいは、しておきたい。

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