第46話 虚無を抱えて生きる

交通事故のニュースを読んだ。50代の医師が高速道路で、愛車のポルシェを時速200kmという超高速で走行させて、前を走る車に衝突、衝突された車は横転し、その運転手が亡くなったということである。


分別ざかりの年代、 しかも人の命の重要性を認識しているはずの医師という立場の人間が、時速200kmという馬鹿げた速度で危険な走行をしたという点は今は置いておく。このニュースを読んで改めて感じたのは、人には、不慮の死が訪れるというこのことである。


不慮の死によって幕を閉じる人生とは一体何だろうか。そのようなものにどんな意味があるのだろう。誤解無きよう、わたしは、不慮の事故によって死んだから、人生に意味が無いと言っているわけではない。たとえ、天寿を全うしたとしても、それは、たまたま不慮の死が訪れなかったというだけのことであって、自分の意志によらない、つまらないことで死んでいた可能性はあったわけである。そう、それは常にある。わたしも今日あたり、もしかしたら、道の石ころにけつまずいて、頭を打って死ぬかもしれない。


人生という形式には、この不慮の死というものがあらかじめ組み込まれている。みんな何となく80歳とか90歳辺りまで生きると思って日々を暮らしていることだろうけれど、そういうわけには行かない。今日生きられたとしても、明日生きられるかどうか分からない。前後ありといえども前後際断せり。これは、戦国の世では当たり前なのだろうが、平和な世では、改めて言われないと気づかないことなのではないか。あるいは、言われてもなお気づかない。いわゆる、平和ボケ。ボケている人は、自分がボケていることが分からない。


いつ死ぬか分からない。これまで頑張ってしてきたことが、今日あたり、くだらないことでパーになるかもしれない。これを誠実に認めることができれば、社会的幸福を利己的に目指すなどということが、どうでもいいことのように思われてくるのではないか。いつ死ぬか分からない状況において、幸福になろうとすることなど一体いかなる意味を持つのか。


でも、そんな考え方はあまりに空しいじゃないか、という反論もあるだろうが、わたしは、人生というのは本質的に空しさを抱えているものであると思う。いくら前向きに生きようとしても、死は常に後ろに迫っている。


なるほど、それなら、いつ死ぬか分からないわけだから、現に生きている今日をできるだけ楽しく過ごそう! という考えに至った人がいたとしたら、それは、まだ認識が甘い。というのも、不慮の死は必ず起こると決まったわけでもなく、天寿を全うするかもしれないからである。今日のことだけ考えて生きて、生き残ってしまって、結果後悔する可能性もある。


どうでしょう、人生のこの理不尽な形式。人生を好きなように生きようという言い方がよくされるけれど、好きなように生きるなどということは決してできない。好きなように生きているように見えても、それはただ生かされているだけのことである。何によって? 「神」という言葉を使わないとしたら、何によって生かされているのか、わたしにも分からない。


ここまで読んで、そうか、そうか、人生というのは理不尽なものじゃのう、と納得した方、まだまだ認識が甘い。「人生の形式」という言い方をしたが、わたしは人生を外側から見たことがないので、本当にそのような形式を持っているのかどうか分からない。「人生の形式」と言ったって、それを言っているのは、人生の中にいるこのわたしなのだから、そんなもん分かりっこない。じゃあ、これまで述べてきたことは一体なんなんだ、それは本当のことなのかと問われても、わたしには答えようがないのである。

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