第45話 他人の意見を受け入れる前に

わたしはあんまり他人の意見を聞かない。と、こう書くと自らしか頼まないような傲岸不遜な人間に思われるかもしれないが、そんなことは無い。尊敬すべき人は素直に尊敬し、自らにできないことをした人は率直にたたえる、実に愛すべき人間である。それにもかかわらず、どうして他人の意見をあんまり聞かないのかと言えば、それは、他人の意見というのが、どうにもうさんくさいからである。「他人の」意見というのは、その定義によって、「自分の」意見ではない。自分の実感に即したものではないわけである。自分の実感に即したものでないものは、いかに素晴らしく思えたとしても、必ず疑うことにしている。


たとえば、好きなことをして生きなさい、ということが言われる。多くの人は、現に好きなことをして生きられるかどうかは別にしても、好きなことをして生きることそれ自体の価値を疑うことはないだろう。好きなことをして生きられたらいいな、とは誰も思うことではないだろうか。しかし、わたしは疑う。本当にそうだろうか? 好きなことをして生きることは、好きじゃないことをして生きることよりも、本当に良いことなのだろうか、と。良いとしたら、一体どのような基準で良いのか。そのようにして、よくよくと考えてみて、あ、なるほど、好きなことをして生きることはいいことだな、と思えたら、その時ようやく受け入れることにしている。


世の中には自明とされている価値がある。好きなことをして生きる、というのもそうだけれど、他にも、自由なり平等なり友情なり愛情なり他者貢献なりなんなり、それらの価値を取り込んだ意見は、鵜呑みにしてしまいやすい。だまされてはいけません。と言って、その意見を言う方にしてみても、だまそうという気もないのかもしれないのだけれど、「地獄への道は善意で舗装されている」という言葉通り、悪意より善意で為された行為の方が、その行為のウソを見破りにくいという点において、よりたちが悪い。


思想書、ビジネス書、人生訓、著名人の言葉、オピニオンリーダーの発言、インフルエンサーのツイート、これらを読んだり聞いたりしたときには、ただそれを受け入れるのではなく、必ず、疑うことをお勧めします。その意見が、いかにすぐれた素晴らしいものであるように見えても、それはあくまで他人のものであり、あなた自身のものではない。あなた自身のものではない意見をただ受け入れることが、あなた自身の人生にとって価値あることなのかどうか、それも合わせて考えていただけるとよい。


ところで、「他人の意見を疑え」と言っているこのわたしの意見、あなたにとっては他人であるわたしの意見、これ自体も疑いの対象になるかと言えば、当然にそうなる。もしもそうしてもらえたら、このエッセイの目的は達せられる。

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