第44話 生きてるだけで丸儲け
表題は、タレントの明石家さんまさんが言ったとかどうとか、調べたことが無いので知らないが、少し前まではこの言葉があまり好きではなかった。生まれ落ちた以上、死ぬまでは生きるしかないわけで、生きることは損得を超えたところにあると考えていたのである。この考えは基本的に変わらないけれど、それでも、生きているということが興味深いという点では、儲けていると言ってもいいかもしれないと、最近思うようになった。生きているということが一体どういうことなのか、さっぱり分からない、分からないからそれだけ面白い。この面白さを味わえるという点において、「儲け」なのではないかと。
そんなことを思えるなんて、さぞや悠々とした生活を送っておられるのでしょうな、とお思いになる方もいるかもしれないが、わたしの生活は、別に余裕あるものではない。食うや食わずというわけではないが、大分つつましく生きている。しかし、その余裕の無さが、また興味深い。なにゆえ、わたしは、こんなに余裕の無い生活を送っているのか。それは、わたしのせいか、それとも生まれのせいか、あるいはその二つながらか。
余裕の無い生活を興味深いと思えるということは、それはすでにして余裕があることになるのかどうか。本当に余裕が無ければ、興味深いなんて言っているヒマはないだろうから、その意味では、実はわたしは、余裕があることになるのかもしれない。
生きているだけで丸儲けという考えを持つと、それ以上に儲けようという気がなくなる。物が欲しいとか、恋人が欲しいとか、どこかに行きたいとかなんとか、そういうことを思わなくなる。
生きているだけで丸儲けという言葉は、そう思えない人にとっては、そう思えないことだろう。生きることが苦しい人にとっては、こんな言葉が通じるはずがない。それが生きることが苦しいというそのことだからである。だから、これは、誰にでも通じる言葉ではない。そもそも、誰にでも通じる言葉などないかもしれないが。
わたしは、生きていることはただそれだけで素晴らしいことだと説く気はまったく無い。病に冒されている人、その日の食事にも事欠く人、夜露をしのぐ場所も無い人、戦地に生きる人などにとっては、人生は苦しく辛いものだろう。このような人に対しても、生きているだけで丸儲けなどと言う人がいたら、それは想像力を全く欠いた、ただの阿呆である。
一方で、この言葉が通じる人、皮膚で納得はできなくても頭で理解はできる人、「もしかしたらそうかもしれない」と何となく思える人は、生きているだけで丸儲け、という気分にそのうちなることができるかもしれない。
なることができるかもしれなくても、なるべきだと言っているわけではない。なってもならなくても、生きて死ぬということに変わりがあるわけではないからである。ただし、もしもそうなることができたら、いかに生きるべきかという人生の内容よりも、生きているとはどういうことかという人生の形式に興味が向くようになる。その方がずっと面白いことだと、とはいえ、そう感じるかどうかも、やはりその人次第だから、お約束することもできない。
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