第38話 皮膚科医への疑いと課題の分離

また手荒れの話をする。


「また」というのは、以前にも書いたからで、その以前書いたものと重複するところがあるかもしれないが、ご容赦願いたい。どうしてそう何度も書きたいのかというと、それが自分の生活の中でそれなりの位置を占めているからだろう。


で、手が荒れているわけである。なぜだか右手がひどい。カサカサな部分あり、強ばるようになった部分あり、切れる部分もあり……自分で書いてて気持ち悪くなってきたので、状態の詳細は省く。ともかく、まあ未開墾の荒野のようになっているわけである。


「皮膚科に行け!」という声が聞こえてきそうだが、皮膚科には既に行った。で、治らなかった。他の所に行ってみればいいかもしれないけれど、わたしは皮膚科医というものをあまり信用していない。なぜか。かかった皮膚科医がみな薬を出すだけでわたしの手の状況についてしっかりとした説明をしてくれなかった、ということから来る経験的な不信もあるが、そもそも皮膚科医というのは患者の皮膚を治す気がないのではないか、なぜなら、患者の皮膚が治ってしまったら商売上がったりだから、という論理的な疑いもある。


きっぱりと皮膚を治してしまったら、その患者はもう治療を受けないわけで、治療費や薬代をぶんどることができなくなってしまう。それよりは、ちょっとよくなっているように見えるけれど本質的にはよくなっていないような薬を処方して、治療を受けることを続けさせるようにするのではないか。……まあ、医は仁術であるという良心的な医師はいるだろうし、あるいは、皮膚を患っている人なんて数限りなくいるからいくら治しても問題ないという事実があるかもしれないが、わたしの皮膚科医へ向ける疑いは根深い。


では、皮膚科に通わず皮膚を治すために何をしているのかと言えば、食べるものに気を付けたり、ちょっとした運動をしたり、と体調を整えることに注意するくらいのものである。これでよくなるのかどうかわたしは知らない。そもそもが体調を整えると言っても、酒を飲み過ぎている日も多々あるのであって、それすらちゃんとやっていない。


皮膚が治るかどうか不安な気持ちを持つことをやめたことは、以前に述べた。今度はまた別の考え方によって不安を切り捨ててみたい。アドラー心理学に「課題の分離」という考え方があるらしい。らしいというのは、わたしは、アドラーについて学んだことはなく、「嫌われる勇気」というアドラー心理学を下敷きにして書かれた物語の中で語られていたことを読んだに過ぎないからである。いわく、他者の課題を分離せよ。


よし、やってみよう。


「わたし」は「わたしの手」ではない。「わたし」からすれば「わたしの手」は他者である。「わたし」は「わたしの手」が荒れていて、痛くてもかゆくても関係ない。それは、「わたし」の課題ではなく、「わたしの手」という他者の課題である。……うん、うまく行ったような行かないような。この思考実験でもって分かることは、身体と精神は一つ所にありながら、やはり別物であるということだ。わたしの手は荒れていても、わたしの心は荒れてはいないのである。

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