第32話 非スピリチュアルな神との合一

一泊二日で近場に温泉旅行に行ってきた。

近場であるのに、いや、かえって近場であることで一度も行ったことがなかったが、楽しかった。


中でも、特に良かったのが、宿泊したホテルの展望露天風呂で、湯につかりながら、湖が一望できるようになっている。朝もやにけぶる湖の美しさに見とれたのだけれど、美しいものを見ているときは、忘我の境地、自分というものがなくなることを再確認した。美しい風景だけが存在して、それを見ている自分というものがなくなってしまう。風景と一体化するのだ。


これがもし、美しい風景とだけではなくて、世界全体と一体化するに至ったとき、マイスター・エックハルトいうところの、「神との合一」に至るのではないかと思った。マイスター・エックハルトは、中世ドイツの神学者である。


彼は神学者だけれども、必ずしも神秘的なことを述べているわけではない。この世の中の常識を語っているだけである。しかし、常識というものは、まさに常識であることによって、なかなかその不思議さが実感できない。不思議さが実感できない人に向かって、「不思議なんだよ」と語ると、あの人は神秘的なことを言っているということになってしまう。


神との合一について、もっと分かりやすい例を話そう。


わたしは腸が弱い。暴食するとすぐに腹をこわす。そのときに、「腹が痛い」とは言うけれど、「わたしは腹に痛みを感じている」とは言わない。痛んでいる腹がそこにあるだけであって、そのとき、「わたし」なんてものは消えている。これもまた、卑近な話だけど、神との合一、と言えるのではないか。


面白いもので、英語では、腹が痛いということを表すのに、I have a stomachache.という表現がある。「わたし」が「腹痛」を持っているとする、この表現は、現に腹痛で苦しんでいるときでも、「わたし」を手放さないことが分かって興味深い。My stomach hurts.という表現もあるようだけれど、どちらがより一般的なのか、英語に詳しくないので、わたしは知らないが、少なくとも、I have a stomachache.という表現があるということは、それだけ、「わたし」と「わたしではないもの」を分ける意識が濃厚であるということを表している。


西洋哲学において、主客の分離というのは、デカルトの功績ということになっているけれど、その前から、西洋にはそういう伝統があったのかどうか。主(わたし)と客(わたしではないもの)が異なっているものだという意識が強固にあると、エックハルトの言ったことは、よっぽど神秘的に聞こえると思う。


面白いのは、エックハルト自体は、「こういうことを知らなければならないというわけではないが」と断っているところで、それは知らなくてもそれを生きているから特にはっきり意識する必要は無いと言っているのか、分からない人は分からないのだからしょうがないと言っているのか、あるいは、そのどちらでもあるのか分からないけれど、確かに、腹が痛んでいるところに、「今痛んでいるのは、腹なのか、それともあなたなのか」なんて問われても、ほっとけ、という話ではあるのだった。

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