第29話 冬の憂鬱

秋が日ごとに過ぎていく。赤や黄に染まった葉も村雨に落ち、風はますます冷たく、日が短くなる。冬になる。寒がりなわたしにとって、憂鬱な季節である。もっとも、福島あたりで寒いなんて言っていたら、東北の他県にお住まいの諸姉諸兄には鼻で笑われることだろう。「福島など我が東北六県の中では最弱の県よ」と。まあ、しかし、寒いものは寒い。福島も寒いんですよ。海沿いのいわきは別。あそこは東北地方じゃない。雪降らないし。


秋が過ぎて冬になると、こう何となくもの悲しい気分になるのは、わたしが寒がりであるからだけではないだろう。そこに、生命の衰えというものを見るからである。しかし、これは考えてみると、少しおかしな話で、というのも、衰えも何も春になったらまた盛り上がるわけだから、ということは、盛り上がりが予定された衰えであって、もの悲しい気持ちになんかなる必要もないはずである。


いや、それは違う。今簡単に、「春になったら」と言ったが、その春がまた巡ってくるのかどうか、本当のところは分からない。春は巡ってくるだろうが、春が自分に巡ってくるのかどうか。それを無意識に感じ取るからこそ、もの悲しい気分になるのではないか。すなわち、秋から冬への移り変わりにおいて、人は自身の死を直観する。本当にこの冬が明けるのかどうか。


あるいは、こうも考えられる。確かに春が巡ってくるとしても、その春は一年前の春とは違うものである。同じ春は巡ってこない。今年の春は去年の春とは違うのだ、ということを感じるから、もの悲しい気持ちになるのかもしれない。


過ぎ去って還らない。季節がわたしに対して過ぎ去って還らないとしたら、わたしの人生全体は何に対して過ぎ去って還らないのだろうか。わたしの人生に対しては、それを外から見る定点が存在しない。とすると、それは、果たして過ぎ去っていると言えるのかどうか。季節が過ぎ去り、年が巡ることで、いったい何が起こっているのか。わたしには皆目見当も付かない。


この人生という形式は、かなり奇妙な作りになっている。生まれて死ぬまでは生きている。煎じ詰めれば、ただそれだけなのだけれど、もしも本当にただそれだけだとしたら、人は言葉を持つ必要は無い。思想を持つ必要はさらに無い。思想は、この人生という奇妙なものにぶつかって上げられた絶叫、もしくは、漏らされた嘆息である。だからこそ、その奇妙さを丸ごと引き受ける禅は何も語らないのだけれど、禅坊主ならぬわたしは語り出してしまう。誰に向けてということもなく、おそらく、同じ思いを共有する誰かに向けて。


「願はくは花の下にて春死なん」と詠った古人がいた。昔はこれを、無欲な人だなあとのんきに解釈していたけれど、とんでもない間違いだということが分かった。季節を選んで死ねるわけでもなければ、さらにそのとき花が咲いている保証だってない。無欲どころの話じゃない。これは、とんでもない贅沢である。しかし、人生という形式に遊ばれている身としてはどうしたって、そういう贅沢を許してもらってもいいじゃないか、という気にもなるのかもしれない。

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