第28話 世界が滅亡しなかったあとに考えておくべきこと

世界が滅ぶという予言があったが、どうやら滅亡を免れた。


ちゃんと日々は続いている。


ありがたや、ありがたや、と朝日を拝んでいる人、油断できませんよ。なんとなれば、予言が無くたって、世界は今日滅ぶかもしれないからである。なにも、予言が無いと世界が滅ぶことができないというわけではない。余命宣告が無いと人が死ねないわけではないのと同じである。余命宣告がなくても人は死ぬし、予言がなくても世界は滅ぶ。


仮に今日世界が滅亡しなかったとしても、ひょっとしたら明日滅亡するかもしれない。人は多く、予言などという超常的なものの力を借りないと世界の滅亡にリアリティを感じられないようだけれど、リアリティを感じられなくても、ちゃんとそれはやってくるのである。


えらそうなことを言って、お前は世界の滅亡に立ち会ったことがあるのかと言われれば、もちろんそんなもんに立ち会ったことはない。しかし、それを具体的にイメージできるものになら立ち会ったし、わたしだけではなく、大勢の人が立ち会ったはずである。東日本大震災だ。電気・ガス・水道が止まり、交通は途絶し、商店からは我が家族だけよかれ主義によって買い占めが起こり商品が無くなった。あれこそ、世界の終わりをイメージさせるもので間違いなかろう。近いところでは、今年に限って言ったって、西日本豪雨、北海道胆振東部地震。あれらで世界の終わりがイメージできなければ、かなり想像力が貧しい人である。


世界の終わりがイメージできなくても、震災ならイメージできるだろう。もしかしたら今日また震災が起こるかもしれない。われわれの大地は、われわれが信頼しているほどは確かなものではないのである。今日震災が起こるか、明日震災が起こるか。


そうやって、いつ震災が起こるか分からないということが事実としてあるわけだけれど、それだけを考えて生きていてもしょうがないのは確かである。しかし、しょうがないからそんなことから目をつぶりましょうというのであれば、それは知性の貧困というものだろう。何のためにあなたの頭はあるのか。今日震災が起こって死ぬかもしれない、明日震災が起こって死ぬかもしれない、そういう事実をしっかりと受け止めて、ではどのようにして生きようかと考えられるのでなければ、あなたの頭は飾りである。服飾店に行って、帽子を載せる台と取り替えたが良い。


ではどのようにして生きればいいんですか、と訊かれても、そんなことはわたしは知らない。あなたの生き方はあなたが考えるしかない。以前も書いたことだが、あなたの生き方について、「このように生きるべし」と指針を与えようとするものは、ことごとくウソである。あなたの人生は、一回限り、かけがえのない絶対的なものである。絶対的というのは、他から干渉を受けないということだ。生き方について他人から指図を受けることはできない。だからこそ、それについてあれこれ考えることに価値があるのである。

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