第20話 「人生論を捨てよ!」という人生論

人生論はつまらない、とわたしは書いた。しかし、その「人生論はつまらない」と言うこと自体も一つの人生論ではないのだろうか。「人生論を捨てて、人生の不思議を感じよう!」というのは、新たな人生論じゃないのか。それは違う! ……と言いたいのだけれど、しかし、どうしてもそうなってしまうようだ。一切の価値を認めないニヒリストもニヒリズムの価値だけは認めなければならないし、あらゆる価値の相対性を唱える相対主義者も相対主義の絶対性だけは捨てきれない。つまり、わたしが、「人生論はつまらないから捨てよう!」という言葉で言いたかったことは、実は言えていないことになる。それ自体がまた別の人生論となってしまうからだ。


このあたりの言語の構造を、ウィトゲンシュタインという哲学者は、「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」と言った。禅坊主は、不立文字。


もっと身近な例を出します。あなたに好きな人がいたとしますね。その人に向かって、「好き」と言ったとします。その「好き」という言葉は、必ず、「嫌い」との対比の上での、「好き」を意味しています。難しいことじゃないですよ。誰かのことを「好き」と言うとき、「嫌いではなくて好き」と言っているわけです。好悪の天秤があって、好きの秤の方が、嫌いの秤よりも下に沈んでいるわけですね。その天秤の傾きは、何かの拍子に変わる可能性があります。嫌いの天秤の方が下に沈んでしまうことがあるわけです。とすれば、「好き」だと言うことは、同時に、「嫌いになる可能性がある」ことを告げていることにもなるわけです。


気持ちというのは言葉にしないと分からないとよく言われるが、言葉にした途端に、その言葉はウソになる可能性を示す。だとしたら、言葉にしない方が正確に気持ちを表すことになるのかもしれない。


本当のことは語ることができない。だから、「真理とは――」、「悟りとは――」と語られることは、ことごとくウソだと思ってよい。それを語る人がいたら、みなウソつきである。


ところで、そう主張するわたしのその言葉自体はどうなのか。


本当なのか、ウソなのか。

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