第12話 誰も人生を鳥瞰することはできない

人が何かに向けて頑張っているのを見聞きすると、こう何となく萎えるというかゲンナリとするものを覚えるのは、年を取ったからかもしれないが、加齢のせいだけでもない気がする。というのも、年を取っても、何かに向けて頑張っている人はいるからである。いや、世は大生涯学習の時代、齢を重ねてからこそ、ますます頑張ろうという人の方が、あるいは多いのかもしれない。


あらかじめ断っておくが、そのような人をバカにしているわけではない。人生というのは、その人の人生でしかないのだから、その人ならぬ他人が、その人の人生に向かってとやかく言うことは、できない。


のっけから話を変えるが、わたしがバカだと思うのは、そうやって、とやかく言うことができない他人の人生に向かって、とやかく言う人たちである。いわく、「○○をすれば人生で成功できる」「悔いなく生きるためには△△をしよう」などなど、このような言い方で、他人の人生に干渉できると思っている人たちは、単純に過ぎる。裏返し、他人のそういう人生訓に乗っかって生きるような人たちもどうかと思う。どこそこの誰それが言っていたことを真に受けて生きるというのは、いったい、誰の人生を生きているのかということになるだろう。


話を戻すけれど、人が何かに向けてあれこれ頑張っているのを見ると、その様子にどうも同調できず、引いて見ている自分がいることに気がつくのだが、それがなぜかと言えば、あれら頑張っている人たちは、自分たちが一体何のために何をやっているのかということに関して、十分に自覚的であるのだろうか、とこう考えてしまうからである。あれらがんばっている人たちを見ると、わたしは、時に、働きアリの群れを見ているような気になる。それが自分にとってどういう意味を持つのか考えないまま、ただ一心にエサを巣に運び続ける働きアリ。


しかし、まさにその「考えない」、考える機能を元々持たないという点において、働きアリは幸せかもしれない。自分がしていることに疑問を持つことがないからである。人間は、考えられる、考える機能を持っている。あれこれがんばってやっていることが、一体自分の人生にとって何なのか、ふとそれを思う時というのが、死ぬまで全く無ければいいのだけれど、老年に至ってそんなことを考え始めたとき、そういう人たちがその想念に果たして耐えられるのかどうか。他人事ながら、いや、他人事であって、わたしにはどうすることもできないから、いっそう、ゾッとする思いがする。


とはいえ、そんな知った風なことなど、わたしには実は言えないのである。人生にとって何なのか、とわたしは言った。しかし、わたしは死んだことが無いので、人生の総体というものを知らない。だから、今、あれこれがんばることが人生全体にとって何なのかということを言うことはできない。かと言って、いざ死んでしまったときは、死んだわたしはいないので、そのときにも、人生の総体は分からない。ということは、あれこれがんばって生きているのは何のためなのか、それを考えて萎えるということも、本当はできないことになる。


人は人生について何かを語るとき、たとえば、「人生80年」と鳥瞰して考えるわけだけれど、そんなことは誰にもできないのである。人生全体を見晴るかす地点に立つことの不可能、このできなさに、想いを致してみれば、実は、がんばろうが、がんばるまいが、大差は無い。がんばろうが、がんばるまいが、死ぬまでは生きているというそのことに変わりはないからである。


ごちゃごちゃと述べてきたが、人生について、今現に生きている人が語ることはできないということ、その「語り」はことごとく「騙り」であるということ、これだけを覚えておいてもらえれば、それでこのエッセイの目的は達せられる。

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