第10話 感受性が無い人が理論武装する

自分の人生について、誰かの言葉を引っ張ってきて語る人がいる。ニーチェはこう言った、アドラーはああ言った、などなど。こういう人たちは、人生を不思議と感じる感受性が欠けた人たちである。なぜなら、人生を不思議と感じれば、どこそこの誰それが人生についてこう言ったなどということには、興味が無くなるからだ。感受性は無いけれど、いや、無いがゆえに、人生を自分の思い通りにできると思って、どこかの誰かの理論によって武装する。感受性が無い人が理論武装するわけだ。


人生を不思議と感じる感受性が無い人たちに、「人生を不思議だと感じろ、感受性を持て」と言うことは難しいし、余計なお世話であるかもしれないけれど、せっかく生きているというのに、この人生の不思議を自分で感じることもせずに、ニーチェやアドラーの言葉によって生きるのは、他人事ながら、ひどくもったいない気がする。


ニーチェやアドラーが何を言っていたとしても、あなたが生まれて死ぬことには何の関係も無い。彼らの言説をありがたがるのもいいけれど、それらをいったん脇に置いてみるのはどうだろう。脇に置いて、自分の人生をじっと見つめてみる。人生を見つめると、死について考えることにつながる。試みに、自分が死ぬところを想像してみるといい。あなたは死の床についている。体が動かなくなり、意識が段々と薄れていく……そうして、それからどうなる? 意識が完全に無くなって、そうなったら、自分が死んだということを認識できないということが、容易に想像できるだろう。だとしたら、死はどこにあるのか? こういうことを考えるときに、ニーチェやアドラーが何の役に立つだろうか。何の役にも立ちはしない。あなたが一人きりで考えるほかないことだ。


そんなことには興味は無いよという人は、それはそれでもいいのかもしれない。いざ死ぬときになってから考え始めた方が、文字通り必死になるから、効率はいいかもしれないし、そもそも分からないという点では同じなのだから、考えても考えなくても変わらないとも言える。しかし、あらかじめ考えておけば、明らかに、人生の見方が変わる。社会的成功を目指したり、「人生いかに生きるべきか」と考えたりすることから離れることができる。人生について自分の頭を使って考えれば、その分だけあなたは自由になることができるのだ。もちろん、束縛されたままの方がいいと言うのであれば、これ以上語ることは何も無い。

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