第5話

 次の休日、俺はドリルドリルアングラーの娘を連れて、河原のシケた釣り堀へ行った。

 くだんの男はすでに通路の一番端に飲料ケースおいて、練り餌を指先でこねていた。釣り竿は壁に立てかけたまま、人待ち顔だ。

 それを見た俺は、娘に向かって笑って見せた。

「見ろよ、あれを。な、あんたのことを待ってるだろ」

「そうですね」

 返事こそそっけなかったが、娘は安心したようで、わずかに口の端をあげて静かに微笑んでいる。

 彼の方は、こちらにまだ気づかないのだろうか、濃い藻の色に濁った水面をにらみつけて、指先で丸めた練り餌を投げた。もちろん針などつけずに、ただ餌を投げたのだ。

 餌はゆらゆらと揺れながら水中に沈んで消える。いくつかの魚影が底から上がってきたのを見るに、その餌はあっという間に魚の腹に収まったことだろう

 俺は笑う。

「あれじゃ餌やりだ、ちっとも釣り人アングラーじゃねえじゃんよ」

 娘も笑う。実に若々しい笑顔で。

怒れる男アングラーでもないですね。父は見た目はあんなですけど、怒っているわけじゃないんですよ」

「なんだよ、じゃあもう、ドリルドリルアングラーなんて呼べねえな」

 それでいい、あの男は北野シロウ――この娘の父親なのだから。

 俺は傍らに立つ娘の背中をそっと押してやる。

「いけよ、あんたの父ちゃんだろ」

 晴美はためらうことなく北野の隣まで歩いてゆき、飲料の空きケースを引き寄せて座った。

 もともとが無口な二人だ、隣り合って座ったからといって、すぐに何かを話し始めるわけじゃあない。そのうちに北野が、手元で練っていた餌を二つに分けて晴美に手渡した。

 晴美はそれを練り始める。父親と同じように、少し背中を丸めて、無言で。

 二人はそうして、長いこと無言で座っていた。それはおそらく、この二人にとっては言葉に変わる何か――お互い無口であるがゆえに必要な、静かな心の触れ合いだったのだろう。

 やがて、晴美がぼそりとつぶやいた。

「ちゃんと泣いた?」

 北野が低い声でつぶやく。

「お前は? 泣いたか?」

 二人とも、泣いたとも泣いていないとも言わなかった。黙って再び練り餌をこねくり回す。

 冷酷なわけではない、この二人なりの会話なのだ。

 やがて、再び口を開いたのは、やはり晴美の方だった。

「私、結婚するの」

「そうか」

「だから、もう仕送りはいらない」

「そうか」

 北野は立ち上がり、池の真ん中めがけて練り餌を投げ込んだ。

 そして、ゆっくりとした声で。

「年賀状を送りたい、住所を教えてくれ」

 この親子の会話は、それっきりだった。



 それっきり、ドリルドリルアングラーはこの町から姿を消した。

 北野シロウに戻ったから、というなぞかけではない。もちろん、悲しい話でもない。

 婿さんは良くできた男で、今まで離れて暮らしていた分の話もあるだろうからと、同居を申し出たのだ。彼はこの町を出て田舎町で暮らしている。もしも娘が子供でも生んでいたら、きっといいおじいちゃんになっていることだろう。

 さて、俺が何でこんな話をしているかというと、暇ができちまったからだ。

 俺も寄る年波には勝てず、長年開けてきた小さな居酒屋をたたんじまった。金はないが暇だけはたっぷりある、これから何をしようかと考えたときに、真っ先に思い浮かんだのが、あの親子のことだった。

 いったい、あの男は、娘の結婚式の時に泣いたのだろうか――そして、あの娘は、ちゃんと幸せに輝く笑顔であったのだろうかと。

 俺はそれを確かめに行くつもりなのだ。

 あの頃はカウンター越しだったが、俺はもう居酒屋のおやじじゃないんだから客席に座る。きっとあいつは店で一番静かな席に座りたがるだろうから、店の一番奥、カウンターの隅に肩を並べて座って。

 肴はきっと、奴の無言だ。だが、その無言は何よりも雄弁に、彼が過ごしてきた日々を語ることだろう。

 それをゆっくりと聞いてやるのも悪くない、最近の俺は。そんなことを考えているのだ。

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ドリルドリルアングラー 矢田川怪狸 @masukakinisuto

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