第4話
持って出たものはなく、残されたものは簡単な書き置きだけ。たったそれだけで自分の娘を捨てた父のことを祖父母は許さなかった。
「勝手に出て行ったんだ、探してやる必要なんかない!」
そう言って、父の捜索願は出されなかった。
もっとも父親は完全に娘を見捨てたというわけではなく、母が残した貯金を手元に残してくれた上に、毎月いくばくかの生活費を振り込んでくれた。そのおかげで晴美は希望の専門学校に行き、そこを卒業して職を得たのだから、今となっては感謝しかない。
それでもせ世間は、そうは受け取ってくれなかった。
「お金の問題じゃないよ、母親を亡くしたばかりの傷ついた娘を捨てて、どこかへ行ってしまうなんて、以前からろくに口もきかない冷たそうな男だと思っていたけど、ここまでだとはね!」
その言葉の行き着く先が「父親に捨てられて、かわいそうに」という慰めだったのだ。
実に二年の間、晴美はこの言葉をあちこちで聞かされた。時には父への怒りをあらわにして、時には晴美に憐みの目を向けて、それでも悪意無く、ただ晴美への慰めとして、どれだけの相手からこの言葉を聞かされたことだろう。そのうちに晴美は、自分の気持ちに自信が持てなくなっていた。もしかしたら父にとって自分は価値のない娘で、本当に世間が言うように捨てられたのではないかという疑いの気持ちが、心の内から消せなくなっていたのだ。
そんな気持ちに答えが与えられたのはある日のこと、特別なことなど何もない日常の中でのことだった。
その数日前に母の三回忌が執り行われた。その日くらいは父も家に帰ってくるかもしれないと、晴美は淡い期待を抱いていたのだが……父はもちろん帰っては来ず、墓参りに来た気配さえなかった。晴美はさすがに落胆して、自分はやはり世間が言うように捨てられたのだと考えた。
自分と父は寡黙さがよく似ている。それ故に会話の中心にはいつも母がいた。その母が入院してからは、家の中に会話らしい会話の声など一度としてあったことがない。無口な晴美と父は同じ家に暮らしていながら、お互いに顔は合わせても口さえきかない日もあったのだ。
晴美はそれでも不満などなかった。自分と父の性格を考えれば当然のことではあったし、不自由もない。しかし、父はそうではなかったのかもしれない……親子である晴美と父は、母の思い出を共有している唯一の人間だ。その思い出を語るなり、母の死んだときに慰めの言葉をかけるなり、父はなにかそういった晴美の言葉を期待していたのではないだろうか。
(もしもそうしていたら、父は泣けただろうか)
悩みのまま庭先に目を向ける。そこには植込みの沈丁花が、どの枝先にもふんわりと花を咲かせて、浮き立つような甘い香りを放っていた。
あれは母が好きだった花だ。それを知っていた父が母のために植えた、母の花だ。
「お母さん」
そっと呼ぶと、花は風に揺すられてますます強く香った。その香りに触れられたかのように、古い記憶がよみがえる。
この花が咲く季節になると、母はこの部屋の一番日当たりの良い窓際に座って、父の耳掃除をしてやっていた。それはあまりにもありきたりな日常の中にある、ささやかな幸せの光景。
母が崩し気味に座った膝に頭を預けて、父はやはり無言である。賑やかしい母もこの時ばかりは真剣で、口数も少ない。部屋には時計の音と、母が時折吐きだす緊張した呼吸だけが聞こえている。
ふわり、と沈丁花が匂った。
晴美は目頭が熱くなるのを感じて、そこを強く指でつまむ。あの光景がもう二度と戻らない、永遠に失われたものであることが悲しかった。それなのに時計の音ばかりが、あの日と同じように、静かに聞こえているのがさみしかった。
(泣いてはいけない、父は、泣かなかった……)
妻である女性が病に倒れて、一番悲しかったのは父であるはずだ。しかし、母が長く闘病している最中も、そのいまわの際に駆けつけて最後の呼吸を聞いた時も、父は泣かなかった。
だから、父の前で自分が泣くのはおかしいと、そう勝手に思い込んでいた。
(そうだ、今、ここに父はいない)
そっと目頭から手を離す。涙が勝手にあふれ出した。
「お母さん……」
呼びかけの言葉の最後は、嗚咽に飲まれてゆがんだ。
わあわあと声をあげて泣きながら、晴美は今初めて、自分の素直な気持ちと向き合っていた。
特別なことがしたかったわけじゃない、もう一度母のいる日常に戻りたかった。大げさな会話なんかなくていい、学校でのほんの小さな出来事を話したり、スーパーに買い物に行ったり、特に目立つもののない普通の食卓を囲んだり、そういった当たり前の生活を母とともに過ごしたかった。
闘病中の母の負担にならないように、また父が困らぬようにと気を使って言葉にしたことはないが、本当は幼子のように地団太ふんでゴネ手でもかなえたかった、本当にささやかな晴美の本心……それが今、涙となってとめどなく流れては畳に落ちてゆく。
ひとしきり泣いた後で、晴美はふと思い出した。
(父は……)
ちゃんと泣いたのだろうか。父親というくびきから解き放たれて、母のためだけに、母のことだけを考えて……。
晴美は自分が父親似であることを自覚している。だからこそ、父がなぜ自分を置いて家を出たのかを、やっと理解したような気がした。
◇◇◇
「つまり娘さんは、自分が捨てられた理由なんかお見通しってわけだよ」
俺の長い話を黙って聞いていたドリルドリルアングラーは、餌を失った針を池から引き揚げて短くつぶやいた。
「そうか」
「なあ、会ってやれよ、あんただって会いたいんだろ?」
やはり彼はそっけなく、短く。
「そうだな」
会いたいとも、会いたくないとも言わなかった。
彼は釣り針の存在など忘れてしまったかのように、いつまでも練り餌をこね回すばかりで動こうとはしなかった。
「そうだな……」
低い声で頷いて、彼は練り餌を池の中央に向かって投げる。水面に落ちたエサはそのままゆっくりと池に沈みながら――一瞬の魚影が、その餌を水中深くへとさらっていった。
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