第3話

 妻の最後を看取った瞬間、隣にはもちろん娘がいるのだから、父親である自分がおいおいと泣き出してはこれを困らせるだろうと思った。葬儀中はバタバタと忙しく、何くれとなく動き回っているうちに泣きそびれてしまった。

 彼が妻との最後の約束を思い出したのは、仏壇に妻の位牌を並べようとしたそのときだった。

「そうだ、約束だったな」

 位牌に向かってぼんやりと呟く。今時間なら娘も学校に行って不在なのだし、泣くにはちょうど良い。北野は妻の位牌を抱きしめて仏壇の前に座り込んだ。じわり、じわりと心の奥に浮かぶ妻の面影をなぞる。

 学生時代はスレンダーで美しかった妻……やがて病魔に侵されて、もともと細い体はさらにやせ細り、見る影もなくやつれた妻……それでも笑顔を忘れなかった気丈な妻……。

 目頭が涙で熱を帯びてジンと熱くなる。しかし、そこまでだった。

(そうだ、私は父親だ)

 そう思っただけで涙が引っ込む。

 娘も泣かなかった。葬式の間中、気丈に顔を上げて、涙の一滴もこぼさなかった。

 まだ母親に甘えたい年だろうに……。

 それを思うと、父親である自分だけがメソメソと泣くわけにはいかないのだ。

 北野は位牌を抱えたまま、ただ、そこに座り込んでいることしかできなかった。


 ◇◇◇


「そのまま私は、家を出た。発作的な行動だった」

 長い身の上話の終わりに、ドリルドリルアングラーは釣竿を跳ね上げた。その先にはすでに餌などとけ流れて消えた、むき出しの針が付いているだけだった。

 彼はその針を手元に寄せながら、さらに言葉を続ける。

「結局は私の身勝手だ。あの子のそばにいる限り、私はあの子の父親でなくてはならない。父親である限り、泣くわけにはいかない。だから私は、あの子を捨てたんだ」

 練り餌を付け直す手元を眺めながら、俺は笑う。

「やっぱ、娘さんはあんたに似たんだな」

 ドリルドリルアングラーがうっすらと口元に笑みを浮かべたのを、俺は見逃さなかった。

「娘さんはあんたがどんな気持ちで家を出たか、知ってたぜ」

「そうか」

 彼が再び竿を振って餌を池に落とす、その一連の動作を見守った後で、俺は話を続けた。

「俺が昨夜、娘さんから聞いた話はこうだ」


 ◇◇◇


 母親の葬式の時に泣かなかったことを、晴美はいまだに後悔している。

 長い闘病生活の果てに母が命を閉じたとき、確かに「ああ、ついに」という諦観の気持ちもあった。だが、決して悲しくなかったというわけではないのだ。

 人間の気持ちなど、単一の感情で成立するわけがない。これで母の苦しみが終わったのだという喜びもあった、それを不謹慎だと思う気持ちもあったし、大きく開いた暗い穴に落ちてゆくような喪失感もあった。そうした複雑な感情すべてを受け止めるには十八歳という多感な年頃はあまりにも幼過ぎた。

 なによりも、自分よりも父の方が――父は寡黙であるがゆえに誤解されがちだが、本当は愛情深い男である。特に母のことは、お姫様を守るように、大事に大事に愛していた。

 そんな大事なお姫様を病魔ごときに奪われたことが、どれほどに悔しかっただろうかと、それを思うと父を差し置いて自分の方が声をあげて泣くというのは、何かが違うような気がしていた。

 母の出棺の時、ふと顔をあげて父を見た。その表情はいつもよりもさらに固く、すべての感情を失ってしまったかのような虚無に満ちていた。しかしその頬には、涙の一滴も流れてはいない。だから晴美も泣くタイミングを失って、それっきりだったのである。

 それからしばらく、晴美はふとした時に思い出す母の面影に悩まされた。それは近所の小道を通っているときやスーパーで買い物して入り最中など、ふとした日常の中に紛れて浮かんでは晴美を惑わせるのだ。

 思い出の中にある母の傍らには、必ず父が無言で寄り添っている。それは派手な愛情ではなく、本当に黙って寄り添うだけの静かな……春の日ざしの中に音もなく降る桜の花びらのような、美しい愛情だった。

 例えばスーパーでの買い物中、父は母の傍らから離れようとはしない。寡黙ゆえに気の利いた言葉一つかけるわけではない、話のきっかけはいつも母の方からだ。それでも父は、そんな母の話にいちいち頷き、時折は口元をわずかに緩めて微笑み、本当に幸せそうだった。

 晴美は、両親のそうした姿を見るのが大好きだった。派手さなど何もなくていい、風に揺すられて音もなく舞う花びらが一枚、また一枚と積み重ねられてゆくような静かな幸せが、そこには確かに在った。

 あの光景が永遠に失われたことを思うと、目頭が熱くなる。しかし泣くわけにはいかない――なぜなら、父は泣いていないのだから。

 そう思いながら暮らしていたある日、テスト期間で早帰りした晴美は、仏間で母の位牌を抱えて呆然としている父の姿に出くわした。父は、母の出棺の時のような、すべての感情を失ったような顔をしていた。

「何をしているの?」

 声をかければ、父は夢から覚めたみたいに、ぼんやりと口だけを動かす。

「お母さんの、位牌をな」

「そう」

 他人から見たらずいぶんとそっけない会話だろうと思う。しかし晴美は父親に似て寡黙だ、情が薄いのではなく、それ以上の突っ込んだ事情を聞くには言葉が足りないだけなのだ。

(もしかしたらお父さんは、泣こうとしていたのかもしれない)

 しかし、父の頬には、やはり涙の一滴も流れてはいない。晴美はそれを確かめたうえで、特にそっけない声を出した。

「ご飯にするけど、食べる?」

「ああ、食べる」

 短く答えた父は特に感情など見せることもなく、母の位牌を仏壇へと並べた。

 父が家を出て行ったのは、その日のことだった。

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