第2話

 翌日、俺はドリルドリルアングラーに会うために、昼のうちに河原へと向かった。休日であるその日、彼は安さだけが取り柄のシケた釣り堀でいつもどおりに釣り糸を垂らしているはずだった。

 昨夜のうちに彼の娘から聞いた親子の事情はこうだ。まず、父親が家を出て行ったのは五年前のことだったと。当時、娘はまだ18才であり、そこからは近所に住む母方の祖父母の助けを借りながら、今日まで一人で暮らしてきたらしい。

 生活に必要な金は父親からきちんと仕送りがあるらしい。だからこそ娘は『父は自分を捨てたわけではない』と信じているわけだ。

 ところが世間は……特に祖父母はそうは見てくれない。成人もしていない娘を家に置いて出ていくなど、父親としての責任の放棄だと罵った。その罵りの行き着く先が「かわいそうにねえ、お父さんに捨てられて」という憐みだったのだから、これを繰り返し聞かされた娘は自分の気持ちに自信が持てなくなってしまったのだ。

 すなわち、娘は父親に会いたい。しかし周りが言うように父が自分を捨てたのだとしたら、会いに行っても悲しい目に合うだけだろうと、それで父親行きつけの居酒屋に来るなんて賭けに出たわけだ。

 俺はまず、当事者であるドリルドリルアングラーの気持ちを聞くべきだろうと考えた。それで、いつもなら昼過ぎまで寝ているからだを引き立たせて、陽光照り返す河原くんだりまで来たというわけだ。

 料金の安さだけがウリのここは、平日であれば暇を持て余した爺さんたちが何人か、ぴくりとも動かないウキを眺めて一日を過ごす。

 しかし休日である今日は爺さん連中ではなく、野球帽をかぶった小学生が五人ほど、なにが楽しいのかゲラゲラ笑いあいながら釣り糸を垂らしている。

 件の男は――小学生たちから離れてぽつんと座っていた。

「よう、釣れるかい?」

 俺が声をかけると、無言でクビを横に振る。

 実際、ここに来ている客のほとんどは釣果を競うことが目的ではなく、暇をつぶしに来ているだけなのだから、それでいいのだ。

 俺は手元にあった飲料のケースを引き寄せ、彼の隣に座った。

「昨夜、娘さんがうちの店に来たぜ」

 彼は驚きもしなかった。ただ無表情なまま、竿をあげて餌のなくなった針を手繰り寄せた。

 余計なお世話だと怒ることもしない、かといってこっちの話を聞いていないわけでもない。だから俺は、勝手に話を続ける。

「あんたに会いに来たんだよ、会ってやったらどうだい?」

 彼は答えない。餌を付け直した針を手放して、幾度か揺らしてみている。

「それは、何をやってるんだい?」

 やっと返事が返ってきた。

「餌がばらけないか確かめているんだ。ここの練り餌はゆるくていかん」

 俺はほっとして、話の続きを無理やりねじ込んだ。

「なあ、娘さんに会ってやれって、別にあんた、あの子を捨てたわけじゃないんだろ?」

 彼は、池に向かって竿を振った後で、ぼそりとつぶやいた。

「捨てた」

 この短い言葉の意味を拾いそこなって、俺は聞き返す。

「え、何を捨てたって?」

「だから、娘をだよ。誰がどう言おうと、私はあの子を捨てたんだ」

「待って、ちょっと待ってくれ、娘さんはあんたに捨てられたとは少しも思ってないってよ?」

「それでも、私はあの子を捨てた」

 ウキがすっと動いた。だが、彼は竿をあげようとはしなかった。

 彼は少しも動くことなく、ただ低くうめくような声で俺に言ったのだ。

「聞いてくれるかね、私があの子を捨てた話を」

 無口なこの男が自分から何かを話そうとするのは初めてのことだ。

 俺は静かに頷いて、彼に応えた。


   ◇◇◇


 それは北野シロウが家族と過ごした最後の日々の記憶――彼の妻は長患いで何年も病院で暮らしていのだが、それが、いよいよ余命わずかと宣告された。

 すでに薬物治療の手も尽きた、放射線治療の結果も思わしくなく、手術をしようにも体力が持たないだろうと。

 このころの妻の様子として北野が覚えているのは、鎮痛剤の影響で一日中うとうとと眠ってばかりいる妻の、幸せそうな寝顔ばかりだ。

 どうやら鎮痛剤の効いている間は幸せな夢を見ているのだろう。見舞いに行っても起こすことなく、何時間も妻の寝顔を眺めて過ごすような日が多くなった。

 妻をこよなく愛する北野は、せめてうたかたの幸せに浸る彼女のそばに寄り添うだけの時間に満足していた。

 だが、娘はどうだったのだろう……ある日、彼が見舞いに行くと、すでに娘が病室に来ている気配があった。彼は病室に入ろうとした足を止める。間仕切りカーテンの向こうから、ぼそぼそとささやくような声が聞こえた。

「あのね、お母さん……私、リレーのアンカーに選ばれたの。すごいでしょ」

 カーテンの隙間からそっと覗くと、妻は相変わらず眠っている。静かな呼吸の音があたりに満ちていた。

 学校帰りに直接寄ったのだろうか、娘は制服姿だった。静かに、そっと吹きかけるようなささやき声で母の寝顔に話しかけている。寝息をかき消さないようにと、静かな、静かな声で。

 目の前に母が眠っているというのに揺すり起こすことすら叶わず、もっともっと話しておきたいこともあったのではないだろうかと――それがいまだに北野の心残りなのである。

 もっともその時はじんと熱くなる目頭を押さえるので精いっぱいであり、そんなことには思い及びもしなかったのだが。

(泣いちゃダメだ)

 妻が病に倒れた日から、北野はずっと涙をこらえて生きている。

 泣きたいことなら今までにいくらでもあった。妻がすでに手遅れだと知ったとき、その後も命を長らえようと苦しい闘病生活を送っているとき、そして、そのすべてを受け入れて我慢ばかりしている娘の姿を見たとき。

 妻が入院して以来、家事一切は娘が引き受けている。本来なら友達との寄り道が楽しくて仕方ない年ごろだろうに、学校が終わればまっすぐ家に帰って食事の支度や掃除をまわしてくれる。

 母親にだって甘えたい年ごろだろうに……。

 だからこそ父親である自分が泣いてはいけないのだと、北野は心の中で自分を戒めているのだ。

(泣いてはいけない)

 彼はそっと目頭から手を離して顔をあげた。カーテンの向こうからはまだ、娘の囁き声が聞こえていた。

 その数日後、北野が見舞いに行くと妻が目を覚ましていた。これは珍しいことだった。

「気分はどうだ」

 北野が声をかけると、妻は少しだけ笑った。

「いいみたい。今日は痛みもあまりないの」

「そうか」

 遠慮がちにベッドの隅に腰掛けて、北野は不器用に笑う。

「何か食べたいものはあるか?」

 しかし妻は頭を横に振る。

「食べ物は別にいらない。ここにいて」

「ああ」

 側にいたからといって、無口な北野が何を話すわけでもない。それでも妻は、彼が側にいることを望んだ。

 ベッドに腰掛けて、何を話すでもなく寄り添って。妻は白髪の目立ち始めた北野の頭を見て、ほうとためいきをついた。

「あなたは、泣くのかしら」

「なにが」

「私が死んだら、あなたは泣くのかしら」

「そりゃあ泣くさ……」

「どうかしら、あなたは感情の表現が下手だから」

「それでも、泣くさ、きっと」

「そうね、ちゃんと泣いてね、約束よ」

 その時の会話はそれだけだった。彼の妻が死んだのは、それから数日後のことだった。

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